205 能地・二窓漁民の漁場開発

竹原書院図書館において2018年1月30日に刊行された宮本常一著『瀬戸内文化誌』という本を見つけた。その編者田村善次郎の「あとがき」によると「本書は、宮本先生の瀬戸内海論の概説的なものになればと思って編んだものである。膨大な論功の取捨に悩んだ結果がこれである。意図したようなものになっているかどうか、はなはだ心許ない次第

である。お読みいただき、ご批判をいただければ幸いである。さらに皆さんが、瀬戸内海をあるき、見て、これからの瀬戸内海を考えるよすがになるようなものを、一つでも読み取っていただければ、これにます喜びはない。」(P404)と書かれている。

この本の最後の章は「安芸と備後の漁村と漁業」となっており、昭和53年1月に刊行それた『広島県史』民俗編に初出されたものである。

この論文の中に「能地漁民と二窓漁民の漁場開発」について書かれているので紹介しよう。

「広島県沿海の漁村と漁業のなかでとくに心にとめておきたいのは、能地・二窓の漁民であった。古くからの船住居の生活様式をかえず、近世に入ってもなお海上漂泊を事とした。そして能地は手繰網を主業とし、二窓は西組と東組にわかれて、西組は手繰網を主とし、東組は延縄を主業とし、つぎつぎに新しい漁場をひらいていった。

海のことは陸のように地形や土地利用の状況を目でたしかめることができない。魚のいるところは海中であるから、そこで海底の状況をさぐり、どこに魚がいるかを見定め、それを陸上の山や岬や岩や植物などを目標にして位置をたしかめておかねばならぬ。これを「喰い合い」といい、なまってグイヤなどともいっている。そしてそれを頭の中に記憶しておかなければならなかった。そのようにして能地漁民の見つけた愛媛県内の漁場と年代とをあげてみると、次のようになる。

応安四年(1371) 周防灘

天明二年(1782) 燧灘

享和元年(1801) 関前・中島・下弓削(関前:岡村島・大下島・小大下島)

文化十一年(1814) 菊間沖

明治十年(1877) 宇和海

応安というと南北朝時代であるが、実はそのころは、能地漁民の稼ぎ場はまだ周防灘付近が多かったのではなかったかと思われる。それは慶長年間(1516~1615)に、豊後臼杵の津留に定住を見ていることでも推定される。そして、それからしだいに漁場を東へ開拓していくようになる。この漁民は曳きあげた魚をハンボウとよぶ桶に入れて、女子がそれを頭にいただき、農家を売り歩いた。売り歩くといっても、多くは食料や漁業資材とかえた。内海沿岸の村々や島の村には漁業を営んでいないものが、明治の初め頃までは多かった。そういう人たちに魚を供給したのは漂泊の漁民が多かった。

二窓もその初めは能地とおなじように、手繰網を主としていた。二窓の手繰網がひらいた伊予の漁場はつぎのようであった。

宝永元年(1704) 大三島・大下島・佐方島・岩城島

その手繰網が大型化して打瀬網になったのは文政九年(1826)頃で青島周辺の海で稼いでいる。ついで天保元年(1830)年には燧灘東部へ進出した。そこにはすでに福山藩水主浦の漁師たちが活躍していた。二窓の漁民は弘化元年(1844)頃から燧灘西部の海でも稼ぐようになる。瀬戸内海沿岸に港町や城下町が発達し、魚市や魚問屋が出現すると、そこでは高級魚が取り扱われるようになる。その頃から二窓東組の漁民は延縄漁に力をそそぐようになり、つぎつぎに漁場をひらいていった。

天明四年(1784) 燧灘

寛政二年(1790) 周防の地方と島々

寛政十年(1798) 佐方島・岩城島・生名島・佐島・津波島の周辺

寛政十一年(1799) 岡村島周辺・斎灘・伊予灘・周防灘

文政十一年(1826) 豊予海峡

これらの漁場はそれまで延縄漁は行われていなかった。それを地元の諒解を得て縄を延えてみる。そして成功すると、その土地の者も技術をならい、他からもやってきて入会漁場が成立していったのである。」(前掲書P399~402)