168 二窓と長浜の魚売りの行動圏(2)

「長浜は、忠海の西端に位置している。近世、忠海村で漁業を主とする浦方に属していたのは二窓のみであったが」(『竹原市史』第1巻P377)「忠海本村への魚供給はむしろ長浜が請け負っていたというから」(村岡浅夫「二窓の自然と歴史」『フォクロアひろしま』8・9合併号(1981年8月)P367)「当時から漁は行われていたのだろう。ただ、ここの魚売り行商に関わる記述は、少なくとも筆者は見たことがない。処女地ということなのかもしれないが、今回は寄能ヨネヨ(明治40年生)・重好の両氏(母子)から話を聞かせてもらうことが出来た。

両氏とも、ここで生まれ、暮らしてきたが、ヨネヨ氏は、母が9歳の時に亡くなったため、その頃から父と共にウタセと呼ばれる帆掛け舟に乗って漁に出るようになった。獲った魚は、糸崎や尾道の市場へ持ち込んで売りさばく。結婚後は夫と共に出漁し、留守がちだったが、子供たちの面倒は祖母のハン氏(昭和19年没)が見てくれた。ハン氏は、養育のかたわら、重好氏が小学生頃まで魚売りをしていたから、その様子はよく見聞きをしたものである。

魚売り行商はカベリ・カベリサンと呼ばれたが、夫婦で出漁して妻が捌きに廻るものと、市場や漁師から購入して売りに行くものとの、二つのタイプがあった。前者は、出先で処理してしまうこともあり、捕獲した魚をかつては市場へ出さなくても良かったから出来たことだが、やがて小売に『許可』が必要とされるようになると、めっきり数を減らしてしまう。一方後者は、漁師から『漁獲量が少ない時、市場へ行く時刻が遅くなった時は、カベリに買ってもらえ。』と言われ、アテにされる存在だった。カベリは、第二次大戦前くらいまでは、魚をハンボウに入れて運んだが、重好氏はハン氏がカベッテ行くのを見たことがある。この村の女は、かなりのものがカベルことが出来た。ハンボウには籠を蓋として被せたが、ここに魚を入れたこともある。ハンボウを直接頭上に載せるのではなく、手拭を輪にしてクッションとし、その上に置いていた。売りに行く際は必ず包丁を携えたが、これは布にくるみ、前垂れのポケットに入れて置く。金もここに入れておいた。カベリは前垂れを必ずしたもので、これを歳暮にもらったこともある。

ハン氏が売りに行ったのは忠海の町である。ハン氏は魚を二窓で仕入れたが、二窓には長浜の舟が入港することもある。ハン氏は、オヤス・オセキ・オシマ・オトヨの各氏と、五人で仲間を組んでいた。出発は午前三時頃で、連れ立って行くが、道は車両が通れるくらいの幅はある。仲間のなかには車を使う者も居て、他の者の空のハンボウを積んで行ってくれた。車を使っても、カベリと呼ばれたことに変わりはない。カベリは得意を持っていたが、ハン氏たちの場合、二窓で仕入れを済ますと、各々予め決められた所へ手分けをして売りに行く。長浜へ戻って来るのは、午後三時前後だった。ハン氏は仲間のリーダーであったらしく、夜その日の儲けの分配の際は皆が寄能氏宅に集まって来る。売上金から仕入れ金を差し引き、残りを『~はいくら』と言って分け合っていた。この時、子供達が

近くで騒ぐと怒られたものである。ハン氏はお洒落で、カベリに行く時は椿油製の鬢付けで髪を固めていたが、かかる人は稀であった。

ヨネヨ氏も魚売りの経験があるが、始めたのは昭和二七、八年頃である。夫が怪我のため出漁出来なくなって、出るようになった。魚は長浜で仕入れる。昭和二五、六年頃、ここに漁業協同組合が設置され、市場が開設されていた。市場に魚を持ち込んだのは、専ら長浜の漁師である。魚種は季節によって異なるが、ここは春はボラがよく獲れる。市場で魚を買うには、予め金を払って登録しておかなければならない。買いに行くのは朝だが、権利取得者が集まってセリが行われた。ヨネヨ氏の行先も忠海である。魚は、二尺七、八寸四方×深さ七、八寸程の蓋付きの籠に入れて行く。籠は、竹原の籠作りから買い求めたものである。籠には縄をかけ、棒でカタイダが、籠がぶつからないよう、右手で前の、左手で後の縄を、各々支えるようにした。片方の肩にカタイダままだと痛くなるので、途中で適宜替えるようにする。忠海への道筋は現在の国道より山寄りを通っており、最初は上り坂だが、途中のボッカンと呼ばれる峠を境に下り坂となった。この道は、人通りが少ないうえ、途中には人家が全く無い。行き始めの頃は共に行く連れが居たが、やがて一人となったので、特に帰りが遅くなった時は怖かった。怖いものは二つあって、一つは暗闇になるとついて来る言われる化け物、今一つは売上金を狙う泥棒である。これらから身を守るため、魚を入れた籠は空になっても棒で下げてきたが、トンギリと言ってこの棒の先端に包丁を結わえ付けるようにしていた。

忠海では、日の出という仕出し屋かなりの量を買ってもらい、あとは町中を売り廻る。決済は現金で、大抵すぐにくれたが、なかには『待ってくれ』という者も居た。魚の鮮度を保つには、血を止めて固くならないようにしなくてはならないから、小魚以外は予め絞めておく。しかし、事前の処理はそこまでなので、買い手に渡す時は、更に、内臓を出し、鱗を落とし、場合によっては三枚におろすようにしていた。そのため、売りに行く時は、包丁を、出刃とおろし用の二本くらい必ず持つようにする。錐も必携品で、穴子を捌く際は、五本くらいを重ねて目にこれを串刺しにし、一度に処理したものである。爼は、先方のものを借りるようにしていた。」(胡桃沢勘司『西日本庶民交易史の研究』P169~172)