アフガン戦争でなにを学んだか

「アフガニスタン・ぺーバーズ」を通してみるアメリカ人の本音

 

カルザイ・ガニー政権のもとで、同政権を支えた当事者たち(主にアメリカ人)は、当時のアフガニスタンの状況、自分たちの仕事ぶりについてどう感じたのか、当事者たちが率直な発言を残し、アメリカ政府はその記録を秘蔵していた。
以下は、当サイトの編集委員・金子明が、その秘蔵ファイルをもとに出版された「アフガニスタン・ペーパーズ」の英語版を入手し、熟読。そのような記録を残す政府、また、裁判までしてその記録を入手し出版するアメリカのジャーナリズムの粘りに驚きつつ、「編集室から」で4か月にわたってつぶやき続けてきた記録である。このつぶやきを聞けば、読者は、アメリカの横暴・無知・愚かさだけでなく、現地に赴きアフガニスタンの現実と向き合った一人ひとりの率直さや理性と感性、アメリカ民主主義の奥深さを知ることだろう。
アメリカに次いで多額の1兆円近い税金をつぎこみ、労力提供者としてアフガニスタン戦争に関わった日本。政府側当事者としてかかわった日本人も、直接かかわらなくても納税者として税金を支払った国民も、「アフガニスタン・ぺーバーズ」を世に残したアメリカ人の爪の垢を煎じて飲むべきではなかろうか。

 

● 金子明のつぶやき

<第1弾> (2021年10月18日)

ターリバーンが旧政権を追い出して2か月になる。この間に当サイトにもいろいろな記事を上げてきたが、その中に「アフガニスタン・ペーパーズ(Afghanistan Papers: A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)」を引用した記述があり、興味を持った。そこで、いい世の中になったなあと思いつつキンドルをクリックし即座に入手した。ワシントンポスト紙の記者が米政府を相手に裁判を起こし、勝訴。いくつかの極秘文書を公開させ、それをもとに書いた記事を書籍化したという。なるほど、米国では不都合な書類でも溶解したりはせず、また口述歴史というインタビューによる歴史記録が調査学問としてあるのかと感心した。いいとこどりではあろうが、うまく章立てされており解説文も楽しめた。紹介がてら少し引用すると:

—国軍の兵士について/ブートキャンプの教官だった米軍少佐
「基礎訓練で脱落する者はいない。50回引き金が引ければ全部はずれでも問題なし。弾の飛ぶ方向が正しければ良しとされた。」

—アフガン警察について/警察を指導した米国家警備隊少佐
「問題があっても警察には行かないで村の長老に訴える。長老はそいつが気に入れば好きなようにしろと言い、気に入らなければ羊か山羊を持ってこないと撃ち殺すぞと脅す。」

—カルザイ大統領について/国際麻薬法執行局アフガニスタン支部長
「麻薬対策をカルザイに強制するのは米大統領にミシシッピ川以西の米経済を全て停止せよと要請するのと同じ。それほどインパクトのある要請だ。」

—ケシ栽培について/麻薬撲滅作戦の指南役を務めた米国家警備隊大佐
「ヘルマンド州の人たちは収入の9割をケシの売り上げに頼っている。それを取り上げるのがこの作戦だ。そう、もちろん彼らは武器を手にして撃ってくる。生計を奪ったのだから。食わせる家族がいるのに。」

—汚職について/米国務省アドバイザー
「汚職はアフガンの問題でわれわれがそれを解決すると大方は思っている。しかし汚職には材料がいる。金だ。その金を持っていたのがわれわれだった。」

—汚職について/在カーブル米大使館の高級外交官
「もちろん悲しくてうかつな話だが、われわれが成し遂げたことはただひとつ、汚職の大量生産だったのかも知れない。この失敗がわれわれの努力の終着点だ。」

—腐敗選挙について/カーブルで勤務したドイツ人官吏
「人々はお互いに言ったものさ。だれだれが米大使館に行ってこの金額をもらったと。聞いたものは『よし、俺も行こう』と続いた。つまり彼らの民主主義とは最初から金にまみれた体験だった。」

—復興援助金について/米国際開発庁で勤務したアフガン人
「ターリバーンが橋を壊した。アメリカ人の役人は付け替えたい。1週間もしないうちに町の建設会社に新たな橋の建設を発注した。その社長の弟は地元ターリバーンのメンバーで、2人の事業は大盛況。知らぬはアメリカ人ばかりだった。」

米国が「やーめた」と放り出したあとアフガニスタンでこれから何が起こるのか。それを考える上で、この20年間に米国が果たした役割、その功罪について知っておくことは大切だろう。アフガニスタンに興味を持つものにとって必読の一冊である。

 

<第2弾> (2021年11月1日)

前回紹介した本「アフガニスタン・ペーパーズ」には面白い証言が満載なので引き続きいくつか。今回は米国がアフガニスタンで樹立を図った政権がいかに国の実情にそぐわなかったかを証言によって探ってみる。

—EUの役人
「あとから見れば、中央集権を目指したのが最悪の判断だった。」

—ドイツの高官
「ターリバーンが落ちたあと、われわれはすぐに大統領が必要だと考えたが、それは間違いだった。」

—米国高官
「アメリカ型の大統領制など海外で決して通用しないのは知っての通りだ。なぜわれわれは中央集権政府を築き上げたのか、そんなものが一度もなかった場所で。」

—米国の上級外交官
「強力な中央政府を築き上げるのに必要な時間枠は百年だ。われわれにそんな時間はなかった。」

—米国務省主任報道官
「われわれは何をしているのかわからなかった。アフガニスタンが国としてうまく機能したのは、ある大物が出てきて種族と軍閥のごった煮をうまく料理したときだけ。しかも、お互いあんまり喧嘩するなよというレベルだ。それがわが国の州か何かのようになると思ったのがそもそもの間違い。おかげで2、3年で終わるはずがわれわれは15年も苦しんでいる。」

—ウルーズガン州駐留の大隊司令官
「まず、なぜ政府がいるのかを多くの人に証明しなければならなかった。みんな僻地の人だからね。いろんな場所があるだろうが、ともかくここでは中央政府が食わせてくれるわけじゃない。中央集権政府を持つメリットなど理解しないし見向きもしない。『羊と山羊と野菜をこの狭い土地で何百年も育ててきた。中央政府なんか持ったこともない。なぜいまさらそんなものがいるのかい?』とね。」

—NATOカーブル本部に特派された米陸軍中佐
「彼らは家族や種族に対してとても長い忠誠の歴史を持っている。チャグチャラン(訳注:ヘラートの西380キロ、アフガン中部の町)の通りで座っている男にとっては、ハーミド・カルザイ大統領が何者かも、カーブルで政府を代表していることもまったく興味外だ。モンティ・パイソンの映画を思い出したよ。ほら王が泥まみれの農民のそばを馬で行くだろ。農民に向かってこう言った、『我は王だ。』すると農民は振り返って『王って何だ?』と返すやつ。」

ちなみにモンティ・パイソンの映画とは1975年公開の「モンティ・パイソンと聖杯」で、正しくはこんな会話が交わされる:
王「我はアーサー、ブリトンの王だ。あれは誰の城か?」
女「何の王だって?」
王「ブリトンだ。」
女「ブリトンって何よ?」
ところで、このアーサーは馬に乗っているのではない。後につく従者がココナッツをたたいて蹄の音を響かせ、ただパカランパカランとトロット走りをしているだけ。何とも辛辣なたとえではある。
どうやらこのタイプの政府を樹立したことそのものが間違いだったようで、それを認めるのは勝手だが、残された国民はたまったものじゃない。

 

<第3弾>(2021年11月8日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers: A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第3弾。先週日本でも総選挙があったので、今回のテーマは選挙。みんな投票したかい?誰も言わんが、投票するにはハガキも身分証明書もいらない、ただ住所と氏名を告げればOK! そんな当然の権利に関する情報が国民に知らされていない。効率優先国家日本の問題はそこなんだよね。では、行こう:

—ラムズフェルド国防長官(記者会見で)
「アフガニスタンでは選挙などうまく行かないと皆が言った。『500年やったことがない。ターリバーンが立て直している。戻ってきてみんな殺すぞ。そしてわれわれは泥沼にはまる』とね。だが見て驚け。アフガニスタンで選挙だぞ。すごいだろ。 」

—東部ガズニ州に6か月駐留した大佐(1990年代バルカン戦争のベテラン)
「ボスニアとコソボでは、まず地域の選挙から始めて州選挙、国政選挙へと段階的に進めた。しかしアフガニスタンでやったことは全く逆だった。国民にまず大統領を選挙させた。そしてここらの人々はほとんどが投票の意味さえ知らなかった。そう、指に紫のインクを塗っていたよ。田舎の環境ではとても難しい試みだったと思うね。そう言えば、パトロールに出た部隊が尋ねられたことがあったな、『ロシア人が戻って来て何やってんだ?』とね。ここらの人々は米軍がいることすら知らなかったんだ。駐留して2、3年はたっていたのに。 」

—ゲイツ国防長官
「カルザイが軍閥と取引して選挙で詐欺を働いたのには訳がある。前回の選挙のようにわれわれが彼を支持しなかったので、彼はわれわれが自分から離れてしまったと気づいた んだ。そこでわれわれに基本的には『くたばってしまえ』と言ったんだ。」

—ノルウェーの外交官(NATO国防相会議での発言前、隣席のゲイツにこっそりと)
「今から大臣たちにアフガンの選挙で露骨な干渉があったと伝える。ただそれが米国とホルブルック (訳注:オバマ政権下のアフガニスタン・パキスタン問題担当特使)の仕業だとは言わないよ 。」

—カルザイ大統領(2010年4月の演説)
「詐欺まみれの選挙となったのは私を陥れようとする外国人のせいだ。部外者が私への圧力を止めないなら、ターリバーンに加わることも辞さない 。」

アフガニスタンの女性国会議員ファウジア・クーフィ氏(バダクシャン州選出)による自伝「お気に入りの娘」も面白い。彼女は投票所で誰々に入れろと指図している担当官を非難したり、反対派が捨てた自分宛の300票を見つけ出すなど、すったもんだの挙げ句当選した。アフガニスタンの国政選挙では各州で少なくとも2名の女性議員が選ばれるという割り当て制が採用されており、1800票でも当選だった。しかし彼女は8000票を集め、割り当てがなくても当選だったと自慢している。割り当て制について、女性の進出のためには良いことだと認めつつ、彼女は心配している。「そのせいで私たち女性議員が真剣に受け止めてもらえないかも。平等な場で人々の票を獲得したい」と。

話は変わるが、戦前の英国映画はハリウッド製の米国映画には、人気実力ともはるかに及ばなかった。そこで国内の映画産業を守ろうとした政府は割り当て制を導入した。つまりある本数の映画を国内で作った会社だけが米国映画を輸入できると決めたのだ。その結果「クイッキー」と呼ばれる駄作群があたま数あわせのために乱造され、かえって英国映画の質を落としたという。

日本でも女性の政界進出を促すため割り当て制の導入が必要だ、他の先進国並みに、との声がある。政界のみならずすべての分野で女性の進出には大賛成だが、付け焼き刃的な対策はいかがなものかと考えさせられる逸話である。

 

<第4弾>(2021年11月15日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第4弾。今回は麻薬対策について。
2006年春、米国とアフガニスタンは共同して麻薬撲滅作戦を開始した。米国が資金を提供し、アフガン兵がケシ畑をトラクターと棒切れで破壊し始めたのだ。その成果はどうだったか。

—ジョン・ウォルタース麻薬問題担当長官(記者会見で)
「わが国がもたらした成果はものすごい。状況は毎日良くなっている。ヘルマンド州(訳注:南部に位置し麻薬栽培が国内でもっとも盛んな地域)が対アヘン戦争の中心地で、州内の農民も宗教指導者も役人も皆がこの撲滅作戦を支持している。」

—麻薬撲滅作戦でアフガン兵の顧問を務めたケンタッキー州兵中佐
「大成功だったと言われているが、ただの純粋な牛糞だね。作戦のどこにも何の値打ちもないよ。」

—米軍事顧問としてアフガン人部隊と行動を共にした少佐
「撲滅作戦は(有力者の畑には手をつけないなど)違法な作戦だった。国民の金を巻き上げる悪党どもに安全を提供しているのなら、われわれは国民に間違ったメッセージを伝えていることになる。いまにも反乱が起きるのではないかと心配で、作戦の終わる頃には髪が白くなったよ。本当さ。」

—駐留米軍副司令官の副官
「麻薬商人はケシの乾燥樹脂などどこからでも入手できるので、契約した農家の畑がつぶされてもただこう言うだけさ、『去年の冬に2千ドル渡したんだから、お前は俺に18キロ分の借りがある。なのに乾燥樹脂を渡せないというなら、お前か女房か子供たちを殺すぞ。ただ、もうひとつ手がある。この銃を取って俺がアメリカ人と戦うのを手伝え』と。われわれのせいで全住民が敵に回った。ヘルマンド州は爆発したのさ。」

—ロナルド・ニューマン駐アフガニスタン大使(本国への電文で)
「撲滅作戦の結果、より多くのターリバーンがヘルマンド州で戦おうと集まってきた。おそらく自らの財政基盤を維持するためと、ケシの収穫を『守る』ことで地元民たちの支持を得るために。」

—ケンタッキー州兵
「麻薬撲滅作戦でわれわれを引き継いだ英軍は、わずか1週間で戦死者、戦傷者ともに数がはねあがった。麻薬王が加勢し、ターリバーンが加勢し、ほんとうに大変になった。」

—アフガニスタンの麻薬対策状況を視察した米下院議員(本国への機密電文で)
「ケシ畑は本当にどこにでもある。何百もの大きなケシ畑がヘリコプターから確認でき、生育の各段階にあった。満開の畑も多かった。」

—米国務省の南アジア対策を監督した上級外交官
「軍隊には同情します。防弾ジャケットを着てケシをみかけたら、わたしも『ああきれいな花だな』と言うだけだろう。花を刈るために戦地に来たのではない。なのに、花を刈ると農民が敵になりどこかから撃ってくる。」

—米麻薬取締局幹部
「対テロリストの場合なら政府に楯突く首領を殺せばいい。だが、アフガニスタンの麻薬ネットワークと戦うときは、首領を殺せない。そいつが政府のシステム内で囲われているから。」

—麻薬撲滅作戦の調整役を務めた米軍中佐
「こう尋ねる村人は結構いた、『中佐、あんたの国の人たちが欲しがり使っているものを、なんで撲滅するんだい?』とね。そこを彼らは理解できなかった。」

アフガニスタンで育ったケシからとれた麻薬はそのほとんどが西側諸国で消費されているという。売る方も悪いが、買う方も悪いと言える。また30年という長期の戦争で耕地は荒れ、地雷もたくさん埋められている。ケシを育てて生き延びようとする農民を、簡単には非難できまい。

紹介している「アフガニスタン・ペーパーズ」の証言は、その多くが米国のアフガニスタン復興担当特別監察官による当事者へのインタビュー からなる。「学んだ教訓/Lessons Learned」というありがたい名称のプロジェクトだ。その中身を法廷闘争の末に著者が入手して公開した。先のロナルド・ニューマン大使は、後にそのインタビューに答えてこう語っている。
「短期間で結果を出せという死に物狂いの圧力があった。国会が目に見える成果を欲しがったんだ。農村全体を発展させようとする努力によってのみ麻薬対策が成功し機能することをワシントンは理解しなかった。」
この教訓から学ぶものは大きい。

 

<第5弾> (2021年11月29日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第5弾。今回のテーマは、民主国家をこしらえるという旗印のもと米国がアフガニスタンでいかにすさまじい“ばらまき”をしたか。

—米国国際開発庁の元役人(オバマ政権下での援助額の急激な上昇について)
「あの急上昇のころは、人も金も大量にアフガニスタンに送られた。たったひとつの漏斗に水をいっぱい注いだようなものさ。あまり急いで注ぐと漏斗からあふれた水が地面にこぼれるだろ。われわれのせいで地面はまさに洪水だった。」

—米国国際開発庁の別の役人
「費やした9割は無駄だったと思う。われわれには客観性が欠けていた。金を与えられて、使えと言われ、その通りにした。理由も無く。」

—現地の援助請負業者
「おおまか米国の郡くらいの大きさの一地域に毎日おおまか300万ドルをばらまくよう役人たちに言われた。アメリカの議員が視察に来たので聞いてみた。『おたくの国では立法者が責任をもってこれほどの金を使えるか』と。かれは断じてないと答えた。そこでこう言ってやった、『いいですか、だんな。そんな大金をわれわれに使い切れと迫っているのがあなたたちだ。だから使っている、窓もない土くれでできた小屋に住まう社会のためにね。』」

—ダグラス・ルート中将(オバマ政権下の戦争政策指揮官)
「ダムや高速道路をつくるのに気前よく金を払ったのは、ただ払えるのを見せたいがためだった。世界最貧国のひとつで教育水準も最低レベルにあるアフガン人ができあがった巨大施設を維持できないことも十分に知っていた。まあ、たまの無駄遣いもいいだろう。われわれは富める国だ。穴ぼこに金を捨てても銀行はへっちゃらだ。だが、それはやるべきことか? もっと理性的でいることが大事じゃないのか? あるとき米軍がひどい僻地の州警察本部ビルを建設した。正面とロビーはガラス貼りだった。だが完成セレモニーでリボンを切った警察署長はドアさえ開けられなかった。アメリカ人が現地に相談せずに設計したのは明白だ。署長はそんな取っ手を見たことがなかったんだ。この出来事は私にとってアフガニスタンでの全体験の縮図である。」

—特殊部隊のアドバイザー
「われわれは誰も通わない学校の隣に新たに学校を建てていた。何の意味もないよね。地元民は学校など本当は欲しくないとはっきり言っていた。子供たちには外で羊の群れを世話して欲しいんだと。」

—米国職員
「まず安定した地域でプロジェクトを成功させ、他を羨ましがらせないのか? これまで私がつきあった国民の中でもアフガン人は最も嫉妬深い部類に属する。でもわれわれはその国民性を利用もてこ入れもしなかった。その逆で、子供が危険すぎて家を出られないような地域にまず学校を建てたんだ。」

—カンダハル州知事(2008年から2015年在任)
「アメリカ人が推し進めようとした手洗いキャンペーンは国民への侮辱だった。ここでは祈りのため人々は一日五回も手洗いしているのだから。そんなものより、仕事と技術を身につけさせるプロジェクトが必要だ。」

—カナダ軍へのアドバイザーを務めた海軍大学院教授
「カンダハル州で仕事を提供しようと月90から100ドルで村人を雇い農業水路を整備させた。すると月60から80ドルの給料しかもらえない教員たちが仕事を辞めて水路掘りにいそしんだ。」

—米軍将校
「アフガニスタンの東部で50も学校を建て公教育を改善しようとした熱心な陸軍旅団があった。しかしターリバーンを助けることになってしまった。教員が足りなくて、校舎は見捨てられ、爆弾製造工場に落ちぶれたのさ。」

政治家の人気とりには手っ取り早い“ばらまき”であるが、ここまで来るとほとんど破壊工作のレベルである。アフガニスタンで20年にわたってこうした事態が繰り広げられていたのなら、いま国家を受け継いだターリバーンも苦労は絶えまい。外国の金や助けに頼らない国の自立、それがまず大事だろう。

 

<第6弾>(2021年12月09日)

今回は「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)から第5章「さいなむ汚職」の後半を抜粋し、その紹介第6弾とする。

2010年夏のある日 、シャーカーン・ファヌードという名の国際的ポーカープレーヤーがカーブルにある米国大使館ビルを内密に訪れた。当時彼の肩書きはカーブル銀行会長、6年前43歳にして銀行業の砂漠地帯と言われたアフガニスタンで、決まった得意先もないままカーブル銀行を立ち上げ、瞬く間に国内最大の市中銀行に育て上げた稀代のギャンブラーだ。

成功の理由は 卓越したマーケティング戦略にあった。彼は預金者に利子ではなくクジをばらまいた。預金額100ドルごとに一度のクジ引き権を与え、賞品は洗濯機から自動車、新築マンションまでと預金者の射幸心を煽った。月に一度開かれる抽選会は国中で評判となり、アフガニスタン全土に支店が広がった。

ファヌードは銀行王となり 、ドバイで不動産投資に着手、アフガンのエアラインも買収し、ベガス、ロンドン、マカオなど世界のカジノの顔となった。「私のしていることは上品ではないし、本来やるべきことでもない。だがこれがアフガニスタンだ、」と以前ワシントンポスト紙の記者に自慢していた。

しかし2010年の7月彼が米国大使館に現れたとき 、その手にはカーブル銀行が崩壊寸前のカードの館だと暴露する秘密書類があった。ファヌードを含む数人の銀行株主がクジ狂いの顧客の預金を吸い出し数億ドルも自らに不正投資したことの証拠書類だ。金の多くは消え去り銀行は沈没の危機に瀕していた。組織内の権力闘争に敗北した彼は仕返しに全ての銀行業務を停止させようと米国外交官に申し出たのだ。

アフガンの財政を揺るがし、民衆蜂起を誘発しかねない金融スキャンダル だった。加えてカーブル銀行は政府の給与支払い銀行で25万もの兵士、警官、公務員が預金をしていた。その多くは座して預金を失う運命だった。また、カルザイ大統領の兄マームードは銀行の第3株主だったし、タジク人軍閥のモハメド・ファヒム・カーン将軍も大株主でカルザイを支えて副大統領を務めていた。

ファヌードは自分と共謀して銀行の資産を盗んだのはこの2人 だと非難した。その上、銀行がカルザイ大統領に選挙資金として2千万ドルを与えたとも訴えた。米国財務省のある高官は学んだ教訓インタビューで匿名を条件にこう語っている、「この腐敗を1点から10点までで採点するなら、堂々の20点だ。カーブル銀行の経営陣と国政を担っていた連中の関係は多岐にわたり、スパイ小説をまるごと一冊書けるほどの要素がぎっしりだ。」

以来数週間でファヌードを含む主な経営陣は辞職 し、支払い能力を疑問視する報道に驚いた数万の預金者が引き出しを求めて各地の支店に殺到した。カルザイ大統領は記者会見して、中央銀行が運営に乗り出して預金を保証すると発表し、収拾に努めた。ただし舞台裏は大変で、ドイツの銀行に頼みこんでフランクフルトから急遽3億ドルを空輸してもらい当座の危機を乗り越えた。

この事態は当然オバマ政権も無視できず 、カルザイにスキャンダルの徹底究明を促した。この出来事がアフガニスタンにおける一連の反汚職キャンペーン、ひいては戦争自体の分岐点だったと見る米国政府関係者は多い。ある匿名の政府高官は学んだ教訓インタビューでこう語った、「やりたいことは100万もあった。だが実行するには効率的なパートナーとしてカルザイ政権に頼らざるをえなかった。こんなスキャンダルが続けば、他の試みもみな同じ轍を踏むんじゃないか?みんな怒って嫌気がさした。これはいただけないと。」

とは言え米国も非難できる立場ではない 。兆しはあったのだ。前年9月の時点で米国大使館は国務省に電文を打っている、「ファヌードが所有する航空会社の便で大量の現金がドバイへ持ち出されている」と。その頃には諜報機関もカーブル銀行内で不正が行なわれているのを察知していたと学んだ教訓インタビューで語った匿名の米国政府高官もいる。「銀行からターリバーンや他の反乱分子に資金が流れているのをわが国の諜報部員がつきとめ、アフガンのいくつかの諜報組織に伝達した。だがそこから警察に話が進まなかった。彼らにそこまでの権限はないからね。」

ファヌードが大使館に現れる5か月も前 に、ポスト紙はカーブル銀行の危険な状況を記事にして、その中でファヌードもインタビューに答えている。アフガニスタン中央銀行のフィトラート総裁はそれを読んでショックを受け、米国財務省にカーブル銀行の調査を依頼した。カルザイがその着手の許可を出し渋るなど、一悶着の挙げ句、夏には調査が始まった。財務省の調査員はカーブルに着任し、3年もアフガニスタン中央銀行のもとで働いている米職員に面会し話し合った。テーマはもちろんカーブル銀行だ。2人ともまさか失墜直前だとは思いもしていない。その調査員は学んだ教訓インタビューでこう述べている、「一時間も話し合ったよ。こう聞いたんだ『財政的に健全な銀行かい?』と。彼は『はい』と答えた。で、文字通りその30日後にカードの館は全壊したんだ。私の職歴を通して最大のミスのひとつだ。つぶれた10億ドルの銀行に対して、わが国が派遣したアドバイザーが財政的に健全だと太鼓判をおしたんだぞ。」

その後は中央銀行が業務を引き継いだが、 打ち合わせの席は皿や椅子を投げつけ合うなど混乱を極めた。翌2011年4月にやっと焦げ付き総額は10億ドルと発表された。フィトラート総裁は預金を食い物にしたカーブル銀行の株主の資産を凍結することを発表したが、政治的にも有力な株主たちは猛反発し、逆に総裁が米国に亡命した。当時を彼はこう回顧している、「アフガニスタンはマフィアが操る政治家グループの人質だった。彼らは国民の生活を改善するために集められた貴重な国際援助を盗み取ったのだ。」

悪党たちが処罰されたのは大統領がガニーに代わった2014年 だった。裁判が開かれ、ファヌードと共に銀行の代表だった重役には15年の刑が言い渡された。しかし、拘禁条件は軽く、なんと毎日刑務所を出て大規模な不動産取引の現場に出かけることが許されているという。他にも9人が罰金刑か1年以内で出所するなど大スキャンダルのわりに犯人の処分は甘い。ただ一人何の後ろ盾もないポーカープレーヤーのみが言い渡された通り15年の刑に服していた。しかし4年後、ファヌードは刑務所内で死を迎えた。享年55。アフガニスタンの混乱を象徴する男だった。

 

<第7弾>(2021年12月26日)

去る12月9日、米国防総省は過激派組織イスラム国掃討のためにイラクに駐留していた米軍がついにその戦闘任務を終了したと発表した。2003年春のイラク戦争とその後の混乱をやっとのことでひとまず終わらせたことになるが、この戦争が米国のアフガニスタン政策にもたらした影響は何か?「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)を紐解く第7弾として、関係者の証言を確認しよう。

—ハーミド・カルザイ大統領(2003年5月1日、イラク戦争が終った日、カーブルでの記者発表にラムズフェルド米国防長官とともに出席して)
「君らみんなイラクにいってしまったと思ったよ。まだいたのか。よし。つまり世界はアフガニスタンに関心があるんだな。」

—2003年夏に参謀としてアフガニスタンに着任した米軍大佐
「われわれが忘れられたというのではないが、明らかに人々の目は多くがイラクへと向けられた。」

イラク戦争当時ホワイトハウスとペンタゴンで働いていた職員
「物量的にも、政治的にも、すべてはイラクへと傾いて見えた。自分の役割すべてが二軍的なもの、最悪は“兵力節約部隊”の任務だという現実を受け入れるのはつらい。君の仕事は勝つことではなく、負けないことだと言われる。情緒的にも心理的にも、これはつらい。」

—2003年8月アフガニスタンに着任した米陸軍大将
「陸軍が送ってよこした人の中に将来大将にまで出世しそうな人はいなかった。穏やかにいうと、陸軍は協力的ではなかった。彼らの頭は明らかにイラク漬けで、われわれに提供するものは本当に最低限の援助、それだけだった。よりによってパイプラインのどん詰まりにいるような人を送ってよこすんだ。」

—イラク戦争当時アフガニスタンに送られた参謀たちの自虐ネタ
「ここは米国退職者協会の世界的最前線支部だからな。」

—ブッシュとオバマの両政権で戦争指導者としてホワイトハウスに勤めた陸軍中将
「ターリバーンが弱体化し統制を失っていたときにうまくやれば、状況は変わっていたかもしれない。しかしわれわれはイラクへ行った。上手により迅速に金を使えば、結果は変わっていただろう。」

—2003年10月、ビン=ラーディンからのビデオメッセージ
「アメリカ人たちはティグリスとユーフラテスの泥沼にはまった。」

—2003年10月、ラムズフェルド雪片(メモ書き)
「われわれは地球的規模の対テロ戦争に勝つのか、負けるのか? 有志連合はアフガニスタンでもイラクでも、何らかの方法で勝てるだろう。だが長くて大変なゴチャゴチャが続くぞ。」

—アフガン兵を訓練した米軍曹
「2003年にイラクへ配属されるはずだったが、出発直前に変更命令が出てアフガニスタンに飛び、国軍の訓練を始めた。田舎に行って『さて何をしようか?』って。あの痛みは半端なかったな。」

—野戦砲士官として駐留したテネシー州兵
「出発前に国内で講義を受けた。講師がパワーポイントを開いてこう始めた、『では諸君、イラクに行くとだな。』そこで俺は『別の戦争に行くのですが、』と言った。すると講師はこう答えた、『ああ。イラクとアフガニスタンね。同じだよ、』とね。」

—ロナルド・ニューマン在アフガニスタン米国大使(任期2005年~2007年)
「アフガン政府への追加援助として6億ドルを要求したがブッシュ政権が用意したのは4300万ドルだった。『イラクで使うので君には渡せないよ、』とは誰も言わなかったが、実質起こったことはその通りだった。」

—ラムズフェルドの後を継いだゲーツ国防長官(任期2006年~2011年)
「当時の優先項目は3つあった。イラク、イラク、そしてイラクだ。」

平和を求める戦争を仕掛けられ、その挙げ句に殺されたフセインさんはお気の毒だったとしか言いようがないが、イラク戦争がアフガニスタンにも暗い影を落としたことは上の証言からも明かだ。最後に長くアフガニスタン問題に関わったジェームズ・ドビンズ外交官のインタビューを引用する:
「わかるだろ。まずルールその一。一度にひとつの国に侵攻せよ。クリントン時代を見ると、まずソマリアから撤退してハイチへ。ハイチを終わらせてバルカンへ。ボスニアを安定させてからコソボへと向かったんだ。一か国ずつでも時間と注意はハイレベルで注ぐ。それを一度に2か国も展開すれば機能不全に陥るのは必然だ。」
2003年夏に「すべてがアンダーコントロール」と大見得を切ったブッシュに対し、この言葉は重い。

 

<第8弾>(2022年1月10日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第8弾。今回のテーマは「軍隊と警察」。ターリバーンとの戦争状態が続くなか、米国は早急にアフガニスタンの軍隊と警察を整備・強化する必要に迫られた。

軍隊に関しては2003年にブートキャンプをカーブル近郊に開設し、米国流の軍事訓練で効果を上げようとするのだが・・・
—訓練にあたった米歩兵将校/ブートキャンプに来た800名の新兵の中で射撃試験に合格したのは80名だけにもかかわらず全員が卒業できたことについて
「みんな訓練ごっこをしているだけだった。」

—2005年にアフガニスタンに赴任した銃器教官/スイカを棒に突き刺し地面に立て標的にした射撃訓練を行って
「そしてこう言った『よし、アフガン兵さんよ。あのスイカを撃ってみな。』するとただ当てずっぽうに撃ちまくる。で、スイカにはかすり傷すらつかない。」

—アフガン部隊に配属されたカンザス州兵
「銃撃が始まると、アフガン兵は飛び出して敵の銃火を目指して走り出す。そこには敵が構えており、来るのを待っているのだから狂っている。ずっと撃ち続け叫びながら敵を目指して山の斜面を駆け上がる。体は小さいが勇敢な男たちだ。しかし、そんな戦法は我々のやりたいビジネスではない。」

—軍用車両教習官を勤めたウィスコンシン州兵
「フルスロットルかフルブレーキ、とにかくそのどちらか。何かにぶつけても自分の責任だとは思わない。こう考えているんだ、『教官が新しいのを調達するだろう、これは壊れたんだから』とね。」

—戦略計画を担当する米少佐/アフガン兵に「米軍撤退後も軍隊に残るか?」と質問すると 「大多数が、私が話を聞いたほぼ全員が、『いいえ』と答えた。元に戻ってケシかマリファナか何かを育てるんだろう、そこに金があるんだから。これを聞いて私は堂々巡りに放り込まれた。」

警察組織の状況はさらに大変。
—アフガン警察と共働した米国家警備隊委員
「腐敗はひどい。もし家に強盗が入ったとしよう。警察に電話をする…すると警察が現れる。そしてその警察が2度目の強盗になる。」

2012年9月には、ザブール州内の戦地でターリバーンの動向を探っていた米兵がアフガン警察の裏切りにあって銃撃され、4名が死亡、2名が負傷する事件が起きた。
—負傷した米特殊技能兵の一人
「我々は奴らならやりかねないと思っていた。奴らの姿を見るたびに考えていた、『おまえたちいつか俺を殺すだろ』と。」

—元米国務省高官
「軍隊をあれほど短期間であれほど上手に構築できると考えるなど正気ではない。また18か月という期間では、米国内で持続可能な地方警察の一支部を立ち上げることすらできないだろう。同じ期間内に、アフガニスタンでそれを何百も作り上げるなんて、どうすれば期待できるんだ?」

なんだか愚直でくそ勇敢な軍人と、かなりあくどそうな警察官。ターリバーンが舞い戻った今それぞれどんな新年を迎えたのか。今年もアフガニスタンから目が離せない。

 

<第9弾>(2022年1月25日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第9弾。今回のテーマは「ラムズフェルド雪片」。

アメリカが同時多発テロで攻撃を受け、その仕返しとばかりアフガニスタンに侵攻したとき、国防長官はラムズフェルド(在任期間2001〜2006年)だった。彼は下っ端に出す指示や様々なコメントを短いメモに残した。薄い白い紙がいつのまにか机上に降り注ぐので「ラムズフェルド雪片」と呼ばれた。その積雪量は5万9千ページにも上り、雪片どころかブリザードだと、「アフガニスタン・ペーパーズ」の著者ウィットロックは形容している。当然おおかたは機密文書であった。それらがすべて保存されているのもさすがだが、ジョージワシントン大学に基盤を持つ非営利研究機関が裁判の結果勝利し、その全貌を明かにしたとは恐れ入る。大寒を過ぎた今回は「アフガニスタン・ペーパーズ」で引用されているラムズフェルド雪片をいくつか紹介しよう。

—2002年3月28日テレビのインタビュー番組で「米兵の生命を守るために、あの会見室で事実を曲げて伝えなくてはならないことはありましたか?」と聞かれ

「そんなことは一度もなかった。我々は事実を曲げることよりも信頼性の方がはるかに重要だと考えている。我々は今後も軍服を着た男女の生命を守るために、我々の国の勝利を見届けるために、やるべきことをする。そこに嘘は含まれない。」と答えたが、その数時間前に2人のスタッフに伝えた極秘雪片:
「いま心配なのはアフガン情勢が漂流中であることだ。」

—同年4月17日午前10時15分、ブッシュはバージニア州立軍事学校で演説をした、「春が来ればまたぞろ殺し屋どもは息を吹き返しアフガニスタンの恒久平和への道に水を差すだろう。最初はうまくいっても、そのあとでもがき苦しみ、みな最後は失敗する。それはアフガニスタンでの軍事闘争の歴史が物語っている。だが我々はそんな失敗を繰り返さない。」その1時間前にペンタゴンのトップ4人(統合参謀本部の議長・副議長を含む)のデスクに降り積もった極秘雪片:
「米軍はずっとアフガニスタンに足留めだろう。安定をもたらす何かが起きぬ限りは。その何かをしっかり見極めてやっと撤退できる。助けてくれ!」

—同年6月25日、国内世論を恐れて米国の対テロ戦争に協力しかねるパキスタンのムシャラフ大統領に関して、ペンタゴンの政策主任への雪片:
「パキたちを今いる場所で対テロ戦争に参加して本気で戦わせたいなら、つまりパキスタン国内で戦わせたいなら、我々が金をしこたま手に入れればいいと思わないかい? そうすればムシャラフに与えて、彼を今の場所から、我々が望む場所へと配置転換できるだろう。」(この意見は通り、軍事・対テロの名目でその後6年間にわたり100億ドルが援助された。)

—同年10月21日、ブッシュに「今週フランク将軍とマクニール将軍にお会いしますか?」と尋ねたことについて:
「大統領は言った『マクニール将軍とは誰か?』そこで『アフガニスタンを統括している将軍です』と答えた。するとこう言った『そうか、彼と会う必要はない』と。」

—2003年(侵攻開始から約2年後)、諜報部長へのメモ:
「アフガニスタンで誰が悪い奴らかについては視界ゼロだ。人物評価に関する諜報量が圧倒的に不足している。」

—2004年10月、フランスの国防大臣(女性)がケシ産業によってカルザイ大統領の政治力が弱められると心配していることに関して:
「彼女は直ちに行動すべきだと考えている。さもないと麻薬資金がアフガン国会を牛耳り、国会がカルザイに反目し、政府を汚染してしまうと。」

—同年11月、ブッシュ政権の目的なき麻薬対策を批判して:
「アフガニスタンにおける麻薬対策は、てんでんバラバラに見える。どこにも責任者がいない。」

—同年12月、カルザイ大統領の就任式典出席をブッシュに報告して:
「決して忘れられない1日でした。カルザイ大統領は言いました、『やっと命が活動し始めた。米国がアフガニスタンに来る前、我々は静物画のようだった。あなたたちが来て、全てが生き返った。あなたたちの助けでここまでやってこられた』と。」

—2005年2月、ライス国務長官に極秘リポート「アフガン警察恐怖物語」を提出しアフガン警察の現状(無学・無装備・無準備)をこき下ろした際に併せて送った雪片:
「ぜひ一読ください。これがアフガニスタン国家警察の現状です。大問題です。私の印象では、この2ページは人知の及ぶ限り柔和に物議を招かぬよう書かれています。」

—2006年10月16日、ラムズフェルドの演説執筆者たちが書いた「アフガニスタン:5年後」という米アフガン政策よいしょ原稿(アメリカさんのおかげで、19000人を超える女性養鶏家が誕生したとか、道路交通の速度が3倍アップしたとかというデータ集)を絶賛して:
「この書類は秀逸だ。どう使おうか? 新聞記事にすべきか? 署名入りか? 折り込みでもいいか? 記者会見もするか? いや、もっと衝撃的にやれないか? 大勢とびつくと思うぞ。」

この文書「Afghanistan: Five Years Later」をいまググっても何も出てこない。記事にはならなかったのか。欣喜雀躍したのはラムズフェルドだけだったのか。翌月の中間選挙で共和党が敗れたのを機に彼は国防長官を辞任した。アフガニスタンとイラク、同時に2つの戦争を遂行した国家の英雄と呼ぶべきだろうか。残された雪片に触れると、いかに堅固な要塞に守られていたとはいえ、難しい時代を切り抜けた長官の心労がうかがい知れる。昨年6月29日没。その47日後にターリバーンがカーブルを制圧した。

 

<第10弾>(2022年2月1日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第10弾。今回のテーマは「部族と軍閥」。

紹介してきた「アフガニスタン・ペーパーズ」だが、キンドルで読むと検索がたやすく、テーマ別に並べかえて読み直すときとても重宝する。これまで、やっぱ本は紙だよね、と思っていたが、電子本もありがたいなあ、と宗旨が揺らぐほどだ。さて359ページにも及ぶこの証言集だが、その中に、小説か映画の主人公になれそう、と私が勝手に思う人物が2人いる。1人は第6回で紹介したギャンブラー兼銀行王、シャーカーン・ファヌード。そしてもう1人が今回登場するマイケル・メトリンコである。
メトリンコは米国人。イランに派遣され1979年には例のテヘラン大使館事件で人質の1人となった伝説の外務担当官だ。2002年、米国がカーブルに大使館を再開するにあたり、政務部長として登用された。ダリー語で現地の人々と直接話せるというアメリカ人としては希有な外交官であった。そのメトリンコがターリバーンをどうとらえたのか、今回はそこから紐解き始めよう。

—2003年、外務口述歴史企画によるインタビュー
「我々がターリバーンと呼ぶ活動の多くは実は部族的なもので、ライバルとの競争、昔からのいがみ合いだ。そのことを私に、何度も何度も何度も説明してくれたのは、ほら知ってるだろ、あの白い長いあごひげでやってきて、ひとたび座るや1時間も2時間もしゃべり続ける長老たちだった。現状について彼らが笑いながら説明してくれたこともあった。でも必ず言った言葉は、『君たち米兵はこれを理解しないねえ。』つまり、彼らの考えではターリバーンの行為は、ターリバーンたちそれぞれの家族内でもう100年以上続いている内輪のいがみ合いにすぎなかったのだ。」
この後メトリンコはCIAの現地活動を「ド素人、効果ゼロ」とこき下ろして痛快なのだが、ここでは長老の言う「家族」つまりアフガンの「部族」はターリバーンに対してどう動いたのか、証言をひとつ紹介しよう。

—2017年、アフガン国防省の政府高官
「地域の部族長に尋ねた、『500人という大部隊の治安兵たちがなぜ20人か30人のターリバーンを倒せないのか』と。地元の長老たちはこう答えた、『治安部隊はターリバーンと戦って人々を守るためにここにいるのではない。金を稼ぐためにいるんだ』と。治安兵はアメリカが支給した武器や燃料を横流ししていたんだ。そこでこう問い直した、『わかった、政府はあなたたちを守らない。でもあなたたちはこの地区に3万人もいる。ターリバーンが嫌いなら戦うべきではないのか』と。彼らの答えはこうだった、『こんな腐敗した政府には来てもらいたくないし、ターリバーンも望まない。だからどっちが勝つのか見ながら待っているのだ。』」
なるほど、国民に支持されない政府では戦争の先行きは怪しかろう。ではアフガンの大統領府を支えたのは誰だったのか?こんな証言がある。

—第2次ブッシュ政権(2005~2009)下の国家安全保障顧問
「カルザイは決して民主主義を買わなかったし、民主的な機関にも頼らなかった。彼が頼ったのはお得意さんの軍閥たち。私の印象では軍閥が舞い戻ったのは彼が欲したからだ。」

かつてソ連に占領されていたとき反乱分子としてアメリカの援助で軍事力を増大させ、麻薬取引や賄賂でしこたま金を稼ぐ軍閥たち。独自の紙幣を印刷したり、武装解除にまったく応じないなど大統領府も頭が痛かったようだ。かつてカンダハルに暮らし、後に米軍の市民アドバイザーを勤めたジャーナリスト、サラ・チェイスは2015年、学んだ教訓インタビューに答えてこう述べている:
「敵の敵は味方であるという考えに従って我々は軍閥に頼った。我々はターリバーンが軍閥を蹴り飛ばすことにわくわくしている国民たちがいることを知らなかった。」

メトリンコに講釈をたれた長老たちが言うように、これはただの家族間の権力闘争なのか? それが軍事力と財力を持つ軍閥同士の内輪もめとなると、国家の一大事だ。差別を受け、生活に困り果て、命を落とす国民もさぞ多いだろう。アフガニスタンの状況は予断を許さず、人々の暮らしはいま緊張の極みにある。

 

<第11弾>(2022年2月15日)

紹介してきた「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)たが、第11弾となる今回でいよいよ最終回。そこで最後にザルメイ・ハリルザドの発言を中心に取り上げる。大使や特使として米国のアフガン政策を長く牛耳ってきた人物で、当サイトで発表中のファテー・サミ氏の一連の記事によると、2人の大統領(カルザイ&ガニー)と並んで評判が悪い。そんなハリルザドが政策の中枢でどんな言葉を発し、後の「学んだ教訓」インタビューでは何を語ったか。アフガニスタンとアメリカの20年を考える上で貴重な史料である。

—2003年11月ハリルザドはアフガニスタン大使に就任したが、年明けの1月ワシントンポスト紙に署名入りコラムの体裁で檄文※を寄せた。その最後に:
「これほどの掛け金をもらっているので、成功という結果が出るまでは投げ出すわけにいかない。」

※ このコラム(2004年1月6日)は米国務省のアーカイブで確認できるので、以下に要約する:
https://2001-2009.state.gov/p/sca/rls/rm/27702.htm
「アフガニスタンの一里塚」 駐アフガニスタン大使 ザルメイ・ハリルザド 著
アフガン人は米国らが提供した機会をものにして国政選挙への道を歩み出した。それは民主主義への2つの道で、まずはターリバーンやアルカーイダらの極端主義者による妨害の排除。その結果、ローヤジルガの候補者に全体の2割に及ぶ102人もの女性たちが名乗りを上げた。次いで言論による問題解決。新聞、ラジオ、モスク、学校、インターネットなどで、国家の仕組みや宗教、人権、民族、地方自治の問題が討論された。アフガニスタン5千年の歴史で初の快挙だ。
アフガン人の問題克服への思いが失敗の怖れを上回った。彼らは軍閥や極端主義者の妨害をものともせず健全な憲法を欲した。女性や少数者が指導的立場に躍り出た。ローヤジルガによって認められた7人の指導者のうち3人は女性だ。全民族の言葉が公用語と定められた。できあがったのはイスラム諸国の中で最も開明的な憲法のひとつで、大統領制と強力な議会そして独立した司法府を定め、信仰の自由、男女平等などが盛り込まれている。
アフガニスタンには今後も課題が多い。それは憲法遵守、極端主義者の残党討伐、軍属の武装解除、麻薬産業の撲滅などだ。だが整然として透明なやりかたで憲法を選んだことで最初のハードルはクリアされた。
アメリカはアフガニスタンの成功に投資した。ブッシュ大統領は2004年度20億ドルの援助を行い、国軍と警察力と経済インフラ、学校、医療機関を整える。誇りを持ってその民主化をサポートしよう。
われわれのアフガニスタンでの仕事は終わっていない。この国が自力で歩き出すまでにはさらに数年がかかり、国際社会の協力も欠かせない。(このあと最後のパンチラインとして前述の1文が登場する)

—このひどく楽観的なコラムにカーブルの米大使館員たちも驚いたようだが、そのうちの1人はこう証言している(2004年4月に採取された外務省口述歴史インタビュー):
「大使館のカフェで出くわした広報戦略の担当者に聞くと、あのコラムを書くのに20人ものチームが組まれたんだってさ。戦争について光り輝く記事の下書きを作るためだけに、政府はなんでそんな大勢に給料を払うのかねえ。」

ところがこの高価にして強気のコラムとは裏腹に下野中のハリルザドは2016年12月、「学んだ教訓」インタビューに答えて次のように語っている:
「もし米国が2001年12月の時点でターリバーンと話し合う気があったなら、アメリカの最も長いこの戦争は逆に最も短い戦争のひとつとして歴史に刻まれただろう。多分われわれは機敏でも賢明でもなかったので、早い内にターリバーンに手を差し伸ばすことができなかった。彼らを受け入れ和解すべきだとは考えず、敗走した彼らは正義により裁かれる必要があると考えた。」

大使在任中ハリルザドは1日幾度もカルザイと話し合い、ほぼ毎晩夕食を共にした。その後も数時間話を続け、大使館に戻るのはしばしば夜中過ぎだったという。仲良しというか、ズブズブの関係だったというか。続いて同じ「学んだ教訓」インタビューから彼の証言をピックアップしよう。

—2003年から2005年の大使在任中に、アフガン国軍の規模をどうするか? 米国vsアフガニスタンの論争があったが、そのいきさつについて:
「アフガン政府の要求は最初20万人だったが渋られ、せめて10万人から12万人を雇う資金を出して欲しいとワシントンに頼みこんだ。だが、ラムズフェルドはもっと数を減らせと命じ、訓練を施すことを“人質”に、結局兵員数は上限5万ということで同意した。」

—同時期、ブッシュ政権下米国がケシ駆除のため農薬の空中散布を画策したのに対し:
「空中散布などアフガン人に化学戦争を仕掛けるようなものだ、とカルザイは考えていた。」
アフガン側からの猛反発やベトナムでの枯れ葉剤使用のトラウマ、また麻薬撲滅作戦の効果自体に疑義が生じ、この試みは頓挫した。

2005年6月、ブッシュはイラク問題の収束をハリルザドに託し、彼をイラク大使へと配置換えした。カルザイはその決定を翻そうと個人的にホワイトハウスと掛け合ったが、願いはかなわなかった。その時分、ハリルザドはまだ米政府に信頼されていたと見える。

—さて、ハリルザドはイラク入りした当時を思い出して:
「イラクに行ったら、カルザイがすごく人気だった。ホワイトハウスの役人は冗談まじりにこう言ってきたよ、『イラクでもカルザイタイプの人物を探し出したらどうですか?』とね。」

有頂天だったハリルザドに対し、カーブルに着任した米大使(ロナルド・ニューマン)にとってはカルザイと食事を共にするなどもってのほか。それどころか腐敗対策に乗り出し、カンダハル州議会議長でカルザイの異母弟アハマド・カルザイの更迭を要求した。かの地で麻薬取引を仕切っているという嫌疑だった。この騒動はカルザイと米国の関係が悪化する大きな要因となったのだが、もともとアハマドに資金を与え顔役に育て上げたのはCIAだったわけで、もうどっちもどっち、ええ加減にせんかい、と言いたくなる泥仕合だ。ちなみにアハマドはしぶとく議長をやり続け陰の知事とも噂されたが、2011年自らの警備員によって暗殺された。
イラク大使、国連大使を歴任したハリルザドは2009年以降しばらく野に下っていたが、トランプ大統領が呼び戻す形で、2018年9月、いわゆる「アフガニスタン和解の特別使節」として国事に返り咲いた。その後の活躍というか、迷走ぶりは、ファテー・サミ氏の一連の記事に詳しいところである。泥船でも船は船とばかりバイデン政権も対アフガン政策の最終局面を彼にまかせた形だった。そして昨年10月15日、ターリバーンの復帰からちょうど2か月後にその職を解かれた。翌週、彼はカーネギー国際平和基金によるライブインタビューに登場した。「この事態になったのは、あなたに何か間違いがあったためで、やり直したいことはあるか?」と尋ねられてこう答えている:
「それについてはこれから省みる。」

<完>