(先週から引き続き)

しかるにハタと立ち止まりますのは、ひと口にひとり二役と言っても実に多様な形がそこには広がっているからです。手はじめに二役と申して私が思い浮かべていたのは例えば定九郎と寺岡平右衛門を演る、いやもっと欲張って由良之助と師直を独り占めするといった本来ふたりに充てがう役をひとりの役者が身を変えて物すようなときで、役者の見栄を満たしあるときは付け足しで役の不満を埋め合わせてそういう二役です。それとは趣きを変えて役の人物はひとりながら、訳あって本性を隠しそれとは似ても似つかぬ浮世の通り名に身を窶すような二役もあって、歌舞伎で言えば役に添えられて<実は--->と本性が綴られるあれ、卑近に言えばまさしくいれずみ判官です。最後の最後でそれまでの人ざまを物語ごと蹴たくり返すのが醍醐味ですが、これもひとりがふたつの役(つまり遠山左衛門尉と遊び人の金さん)で本身に立ち返るという形だけでなく、同じひとりのまま鮮やかに身を翻す形もあって例えば歌舞伎の『一条大蔵譚』。平家が天下を恣にするそんな雲居の下に甘んずるには侮られるのが一番と鼻先に蝶々を追い掛けるような阿呆の毎日を送るのが前段、そこから目の醒めるような貴公子の顔を蘇らせて邪なる者を斬り捨てるとあるべき世を来迎する結末はひとつの変奏ではありましょう。ただ結末にひとりの人物が(ことの明暗はどうあれ)豹変するということであれば『籠釣瓶花街酔醒』はどうでしょう。花の大江戸吉原でふたりといない華魁にすっかり魂を抜かれた郷の御大尽が金の力で下にも置かれぬ連日連夜の座を設けては栄耀栄華の白河夜船。御大尽の人柄の掛け値ないところは華魁とて百も承知ですがいよいよ見受けという刃渡るような一生の決断に立たされると切っても切れない間夫の手前とんだ田舎者と真っ逆さまに蹴倒されて、ここから豹変する吉原百人斬りの結末。

 

 

 


長谷川一夫をはじめ多くのスターを引きつけた『雪之丞変化』(美空ひばりなど彼女の映画出演の先細るばかりの一作、1966年の『小判鮫 お役者仁義』も名前こそ違えど中身は雪之丞であってこの役に如何に手応えと愛着を持っていたかということでしょう)が二役にして一方が女形という性の越境、勿論女形ですから作中でも男性でありつつ女性となる(、美空の場合は更に込み入って一見女性がそのまま女歌舞伎の役者をしているようですが雪之丞がどのような物語かすでによく知られている以上本来男性がするこの役を美空が演じているというそもそもの捻りが入った)複雑さです。複雑さで言えばロバート・アルドリッチ監督『甘い抱擁』1968年)も引けを取らず、万年続くテレビドラマの主演ながら(一回はあった絶頂の人気からだんだんと下降して)いまや低調なる惰性を感じているヒロインはこれが唯一の収入源で、中年のわが身を思えば番組の降板を切り出されることを心底恐怖する毎日です。私生活では同性愛者である彼女は家に帰れば年若いパートナーがいますが、この若さが落ちぶれていく自分には第二の恐怖であり、彼女は典型的なお人好しである役名のジョージに憑依しつつそれを男性的な暴君に変形させてパートナーを虐げては内に抱えた二重の恐怖を毎夜毎夜黒く塗りつぶしているわけです。更には実際に男性性を発現させることこそありませんが、言わば性の越境を<演ずる>二役というものを作中で批評しているかのようなのが増村保造監督『セックス・チェック 第二の性』(1968年)です。緒形拳は短距離走の専任コーチで(まあ緒形を充てがうんですから自分の信念を貫いて浅黒く蹂躙する役どころですが)彼が見出した安田道代の素質を男性並みに開花させるため私生活の隅々まで男性となることを強要します。つまり作中で二役であることを実践していくわけですが、映画が屈曲するのが題名の通り競技前検診で彼女が半陰陽、肉体的には女性でありつつ男性でもあるという事実が突きつけられてそれを知って尚緒形は男性であることを安田に強いながらその運命に強く女性として引かれていくという性がまるで合わせ鏡のように折りなされていきます。

 

 

 

 

 

 

さて古典的な二役に『ジキル博士とハイド氏』があるでしょう。小説を振り出しに映画になること数知れず、高名で社交的な市民の顔の裏に貪欲で残忍、変態的なもうひとりを潜ませてそれぞれを(とりわけ陰を含んだもうひとりを)不気味に滲ませながら二重の人格を生きます。まさしく19世紀末から20世紀へと精神分析の時代に花咲く主人公ですが、これが第二次大戦後の復員という戦争の光と影に引き裂かれてエドワード・ドミトリク監督『十字砲火』1947年)となります。故国では戦勝の恩恵なんてとっくに吹き飛ばされていて社会で持て余される復員兵の現実に自尊心の置きどころを見失った男が心のうちを波打たせてユダヤ人差別に自らの人格を引き攣らせます。続いてチャールズ・ロートン監督狩人の夜』(1955年)では繁栄の50年代から落ちこぼれた男が一端掴んだ儲け話のためには子供とて容赦なく殺して夜の闇にゆったり口笛をくゆらせながら冷たい表情でこちらを見据えていますし、リチャード・フライシャー監督『絞殺魔』(1968年)ではじりじりと焼けるような60年代を政治からも浮かれた風俗からも隔たった配管工は妻子から見ればやや角張った平凡さであるのに抑え難い性欲をボストンの町一杯に膨らませて次々と女性を絞殺していきます。まあ二役の話は切りがありませんが、サム・ウッド監督『チップス先生さようなら』(1939年)、マイケル・カーティス監督『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(1942年、はたまたジョン・フォード監督『長い灰色の線』(1955年のように主人公が年若いときから語り起こし老境のいまに至る年齢の懸隔もまた二役でありましょう...  ただこれらが言わば役者から見た二役だとするとそれを満たしつつ映画でいう二役とは詰まるところひとつの画面に同じひとりが瓜ふたつに向かい合うこと、これに尽きると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌舞伎でどんなに欲張ろうとも塩冶判官と由良之助をひとりで演じることは叶いませんが映画ならば(スプリットショットにスクリーンプレイ、背中越しなり首から下なりで代役と向い合ってカットを割れば)造作もありません。<由良之助はまだか>と透徹した覚悟の先に雫の垂れる思いに踏み迷う若き君主を演じつつやがて眦を決して切腹、そこに待ちに待つ由良之助を同じ役者、決然と殿の今際の息吹きなりと承らねばと駆け寄って、カットバックに高まるこのひとり二役の絶頂は映画ならばひとつの画面に君主と由良之助がひしと収まるカットでしょう、でもそれはなぜなのか。映画が生まれたまさしく黎明の1895年、リュミエールの一作に「赤ん坊の食事」があります。裕福な暮らしぶりの夫婦に挟まれた赤ん坊が庭で食事をするのを記録する1分に満たない映像ですが、それが観客の心を揺さぶったのは人物の甲斐甲斐しい動きよりも彼らの背後で植物たちが風にさんざめく姿であったと言われ(北村匡平『24フレームの映画学』晃洋書房2021.5)、およそひとの手を離れた広大なるものが四角い画面に息づいていることに驚いたわけです。それは映像に映った第二の自然というべきものですが、そのあまりの自然さをぶち壊して映画が独自の広がりを穿ったのもやはり映画のなかです。牧野省三は現像されたフィルムの途中で主人公を取り囲む捕り方のひとりが<消失>しているのに気づきます。つまり撮影中に日の陰りなどで中断、その休みに用を足しに現場を離れたひとりに気づかずに一同が元の位置、元の仕草に返って撮影を再開、当然いないひとりがフィルム上で消失し、これが忍術映画の始まりというのが映画史の教えるところです。自然であることを裏切るこの映画の境地にあるのは端的に不気味さであって、ひとが痕跡もなく消え、そのことに世界が身じろぎもしないことは私たちを心底寒からしめます(、勿論人間の感覚はそれを忍術として意味づけした途端に娯楽へと鈍麻して目玉の松っちゃんが消えては現れるのを喝采するようになるわけですが)。ひとつの画面に同じ顔が別の人間として見つめ合うということに広がるのもやはり不気味さであって、この鋭角に突き立つ痛みのない痛覚こそ映画における二役がもたらすものであって、この一瞬の痛覚がひとを無抵抗にして同じ顔が向かい合うというあるまじきことの魔力に引き込んで映画という無重力にひとは遊泳します。

 

 

 

 

 

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