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「感覚」移入する空間芸術〜手話から人の水脈を探る
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渡邉)渡邉康太郎がナビゲートしているJ-WAVE「TAKRAM RADIO」

今回のゲストはインタープリターの和田夏実さんです

よろしくお願いします

和田)よろしくお願いします

渡邉)さて実はね、和田さんとは結構久しぶりなんですよね

最後に話したのはいつだったろうか

和田)ご一緒させて頂いてたのは、本当に6、7年前、、、

渡邉)2015年くらいに和田さんがTakramのインターンで来ていて、

Takramの表参道オフィス時代のインターンの一人として参加してくれていて

いろんな一緒にプロジェクトはそんなにやってなかったかもしれないけど

何かおしゃべりはいろいろしてたような気がします

和田)すごくいろんなロマンチックなお話を伺って。

確かご結婚される前で

渡邉)僕の一方的な恋愛話を無理やり聞かせていた

みたいな感じだったのかしら

和田)素敵でした

渡邉)僕は、和田さんの21_21での作品展示とかね

そういうのは拝見したり

Webで映像をみたりとかっていうのはしていました

和田)ありがとうございます

渡邉)あとはこの番組にも何回も登場してくれている

ドミニクチェンさんがよく和田夏実さんを是非TAKRAM RADIOに

呼んだ方がいいんじゃないかって3回ぐらいことあるごとに

いってきてくれていて、タイミング逃していて2022年

というのがどういうタイミングなのかわかんないんだけど

今年が終わる前にぜひお呼びしたいみたいなので

今日に至っています

和田)それはすごく嬉しいお話ですね

ありがとうございます

ドミニクさんには本当にお世話になってて

ICCの時の情報環世界研究会から

この間の21_21 DESIGN SIGHTの展示も含めて

大変お世話になっているので嬉しいです

<インタープリターという仕事>

渡邉)そのお世話になり方も後ほど詳しく聞きたいんだけれども

おそらく和田さんのことを初めて知る方もいるかもしれないので

和田さんが何をしている人なのかどういう人なのかというのを

最初にちょっと簡単に聞いてよろしいでしょうか

和田)私は自分の肩書きをインタープリターと名乗っておりまして

それは一体何なのかといいますと通訳とか媒介者とか解釈者とか

いろんな定義があるんですけど

私の中では翻訳をしていく過程で

さまざまなメディアを作ったりつなぎ方を考えたり、遊び方や場の設計を考える人

もしくは博物館とか自然館での学芸員さんのような方々のことを

インタープリターと呼んだりもするんですけどそういった

まだみぬ世界というものをいかに開拓して発掘しながら

それを世に出す、外に出せるメディアや方法を考えるということを

やっていきたいなーと思っていてインタープリターという風に名乗っています

渡邉)なるほど

和田)今は展示だったり、作品制作をして展示されていただくこともあったり

あとカードゲームだったり遊びを作らせていただいたり

後は博士過程にいるので博士論文に向けて自分の研究や自分の思いを言葉にして

日々を過ごしています

渡邉)媒介する人まだ見ぬ世界との出会い方を

つなぐ人っていうような感じなのかな

和田)そうですね。よく作品を作ることもあるんですけど、

私の中から全てが出てくるというよりは

誰かとか何かとの間で翻訳をしようとする過程で

出てくることがすごく多いのでやっぱりアーティストというよりは

インタープリターというほうがしっくりくるなぁと思っています

<翻訳特有の回路と和田さんの研究領域>

渡邉)なるほどめっちゃ面白いなあ

また一瞬脱線しちゃうかもしれないんですが

僕自身たまに場の必要にかられて通訳をすることがあるんですね

それは例えばフランス人の友人とかフランス語が母語の友人

英語が僕の友人などと妻が喋る時に妻が割と日本語専門の人なんで

僕が間に入るみたいなことがあります

これは普通に音声の自然言語の媒介だけれどもこの間の中でみたいなのは

僕自身も体感としてそれをやることの快感というか面白さみたいなのって結構感じるんだよね

和田)ありますよね、それは

渡邉)そうなんだよね、なんかこう喋ってる人が例えばあるフランス人の

知り合いのキュレーターの女性がいるんですけど、フランス語とか英語で

わーって喋ってくれるのよ

興奮すれば興奮するほど通訳の存在を忘れて、長時間喋ってくるじゃない

あるあるだと思うんだけどね。1回やばいってなるんだけど

でもそれはコミュニケートしたいものがあって

自分の話とかも伝えたいっていうことであふれてるって状況だから

辛いけど嬉しくもあるみたいなのが媒介者の実感としてあって

一言一句を覚えてるわけじゃないんだけど

ロジックの形を覚えているというか、ストーリーの起伏を覚えていて

それを脳内で再生すると、さっきこういう言葉が出てきたっていうのが

おのずと記憶の中で反芻されていくみたいな

和田)そう、本当にそうです

私は手話の通訳をすることが多いのでビジュアライズしていく感覚もあったりして

誰かの頭の中を一緒に走りながらそれを視覚化していく面白さがあるなぁと思って

今の、起伏が分かる、ロジックが分かる、

フレームがわかるというのも多分頭の中がわかる

理解できてしまうとか掌握するというようなわかるじゃないんですけど

走っている中でこのワードの次にこのワードを置くから

そこからそこに飛ぶんだというような自分の知らなかった回路が

開拓されていく喜びだったり、本を読んでる時の感じだったり

受け取り手としてではなく間に立ちながら伝える者として存在するということ自体が

多分あんまりコミュニケーションにおいて多くないとは思うんですけど

それをした時に初めて見えてくるその人らしさとか

その人の思考の回路だったり発露のあり方がすごくあるなあというのを

実感することが多くて面白いですよね、通訳って。と思います

渡邉)いやあめっちゃ面白い

この辺は僕も興味津々なんで後ほど深堀りしてみたいんですけど

突然自己紹介のタイミングでめっちゃ具体的な話を振っちゃったんだけど

和田さんは今研究者でもある、博士課程に在籍をしている

という側面もあるという事なんですが

何を研究してるかちょっと教えてもらっていいですか?

和田)はい、先ほど手話の通訳をしているといったんですけど

もともと特異的なところとしては

手話を第一言語に育ったっていうところがありまして

それはの両親が耳が聞こえなかったので、手話を第一言語に家の中では育ち

外の世界では日本語で、音声言語と手話と両方を学びながら育ってきたんですけども

今大学の研究では、もともと学部や修士の時から

インタラクションデザインをやっているんですけど

今は先端表現情報学というところにいつつ 同時に研究員としては脳科学の所にいて

手話を読み取ってる時の頭の中や脳活動ってどうなってるんだろうとか

言語野?それともそうじゃない?みたいなところをみていくということをやっています

ここが現在すごく面白いんですが、言語と芸術と思考の揺らぎに触れていく

ところが脳科学の所から見ていくことで見えてくるものがあったりもして

そこを今は研究探索しています

渡邉)えー、超面白そうどうしよう

突っ込みどころが多すぎてどこから始めていいか

<「日本手話」と「日本語対応手話」>

渡邉)では後から帰ってくるテーマとして翻訳という営み媒介する人

インタープリターの中の体感、あと脳科学的な手話を使っている時の

言語・芸術・思考のゆらぎみたいなのも是非また帰ってきたいなと思いますが、

そこに行く前に手話が第一言語であるという話で外の世界では音声言語

例えばWebのインタビューを読むと保育園の頃とか

祖父母との対話で電話を使って音声言語でというお話は読んだんですけれども

この手話が第一言語で生まれ育つっていう時の手話というのは

手話って二つあるんですよね

日本語の音に沿わせるやつと独立した言語としてのサインランゲージ、

どういう違いがあるんでしたっけ?

和田)自然言語として成り立ってきた言語としては日本手話という言語がございまして

それと日本語圏内、日本の中で日本語と手話とを学んでいくときに

記号が結構似ていたりとかどちらも借用がすごく多くあるので

「行く」とか「帰る」とか単語レベルで単語に沿った語彙というのが

手話の中にもたくさんあって語彙を日本語順に並べていくいうのが日本語対応手話(*1)で

日本手話(*2)の場合は文法構造とか空間の使い方も

手話的な文法や記号性を持つというような違いがあります

渡邉)日本語対応手話と日本手話っていうのが

それぞれ別の言語世界を持っているということですね

和田)そうですね

日本手話の場合はすごく映像的な表現だったり文法酵素だったり

ここが結構私の個人的な研究に重なるんですけど

ろう者同士が会ってそこから自然発生にうまれた

言語に音の介在がなかったりするとか

映像的なイメージを映像的に置くみたいなことだったり

例えば音声言語は音なので線的に並べていく

視空間が自在に使える手話という言語だったら

視空間をどのようにして構造化して

空間的に使って言語として成り立たせていくのかというところが

おのずからのスタートポイントが音なのか

視覚なのか体なのかによって全然違ったスタートポイントがあるのではないか

その中で何が言語たらしめていて、手話という表現、

メディア、身体と視覚とを使ったことによって

どんなことが線的な言語とはまた違った形で現れているのかが

探求しがいがあるところですね

渡邉)音からうまれた言語中心の日本語対応手話と

空間中心の日本手話みたいな感じなのかな

和田)音中心に出来上がった音声言語の世界が歴史的にも長らくあって

それに対して日本手話が自然発生言語としての手話というものと

言語の間を活用しようとして試行錯誤の末

出来上がったラベル、線的に並べるけど

手の形は使うというような手指日本語(*1)、日本語対応手話が

それぞれに出来上がってきていて

<メディアで使用される手話>

渡邉)時間芸術っぽい日本語対応手話と空間芸術っぽい手話と、、

これって我々がNHKのニュースを見てる時に音が聞こえながら

同じ内容が手話で字幕みたいに出てくるというか

手話がなされてるという状況は日本語対応手話なんですか?

和田)情報保障としては

例えば日本手話の方が理解がしやすい方が一定数いるので

日本手話で提供されていることが多いと思います

でも中には日本手話 じゃなくて

日本語対応手話の方が分かりやすいという方もいらっしゃったり

その受け取り手の多様性が絶対にあるので

情報保障に起きる正しさって本当に難しいと言いますか

翻訳における正しさや保障としての正しさは

あまり言及しにくいところではあったりするんですけど

渡邉)NHKでつけて見てるのはどっちなんだっけ

和田)日本手話で作ることを目指されていると思います

渡邉)和田さん自身が第一言語として学んだのも日本手話だったのですか?

和田)例えば母親の場合は20歳とかある程度過ぎてから

手話を学んだので入りが日本語対応手話だったりもする

父の場合は小さい時からろう学校に通ってたので

最初から日本手話だったりもして、いつその言語に出会うかによっても

それぞれの言語体系のあり方が違うので

私自身が明確にどっちだったかっていうことも

あんまり決めきれないところもあります

渡邉)それぞれの言語が混じっているんですかね

和田)そうですね、私の場合は

日本語対応手話の方と話してるとその語順になっていったり

日本手話の方と話していると日本手話の表現に近づいていくというように

関わりの中でもすごく変容します

<身体にある記憶を表現する「触手話」>

渡邉)思い返すのが穂村弘さんという歌人の人が初めての短歌って

本の中で書いているエピソードで

恋人同士が独特の名前で呼び合うという話をするんですよ

最初は穂村弘さんだから「ひろしさん」なんだけど

「ひろさん」「ひろぴょん」でだんだんと変化・変形して「じゃんじゃぴょん」になる

「じゃんじゃぴょん」にひろしの面影はもう残ってないですよね

名前というのは基本的に呼ぶことによって相手に認識してもらうとか

相手を認識するっていう機能があるはずなので

名前の機能性としては著しく毀損をされている、なので効率は悪い

言葉の元々の音がなすべき機能を半分放棄しているけれども

放棄しているからこそ、その二者の間でしか通じないけど

独特なコミュニケーション成り立ってること自体に

甘美さが宿っているっていう風にいうんですよね

恋人同士だからこそ独特の名前がある、他の人からは分からないっていう

そういう風に関係性を説明できるんだとか

よくわかんない二人の間だけで生まれた言葉とか

呼び名みたいなものがなんか独特な魅力を持っているんだ

ということについてハッとさせられました

和田)本当ですよね

私自身は手話の通訳をやりながら

あと目と耳が聞こえない盲ろうの方の通訳を

触手話という方法で手話に触れながら会話をするということを行なっていて

これもまたすごい面白い世界なんですけど

目をつむって今目をつぶっていただいて

空という字を書いてみてください

おそらくみんなかけたと思うんですよ

見てなくってもかけるって事は、

文字を書く時、見て書いているようで実は手が覚えてる

つまり私たちの体には様々な行動が外側に出ているようでいて

様々な行動や歴史や記憶というものが何十年分も身体側が知っている状態がある

記憶の積み重ねが身体側に起こっていて

私たちは盲ろうの方の通訳に入る時に彼らの体の記憶と手話とを

体を動かしながら、手話を一緒にトレースさせてもらって

その中で言葉を共有したり翻訳したり伝えるっていう事をしているんですけど

視覚同士のビジュアルコミュニケーション、

もしくは体の中で記憶を探っていくようなこと、

あるいは全盲の友人と一緒に音だけのゲームみたいな物を作ったり

それぞれ色んな感覚の中を巡っていると存在について

考えざるを得ない時が多くありまして

「ある」とは何かということ、についてですね

<手話から人の水脈を探る>

和田)例えば「輝く」言葉を盲ろうの方と一緒に伝える、

Brightという英語のアメリカ手話を彼に伝えなきゃいけない時に

輝くっていう言葉を伝えるには光という概念が彼の中に

どんな形で存在しているのかからスタートする必要があって

光というものは私の中の光のイメージと康太郎さん中の光のイメージと

私がご一緒させて頂いている方の光というのが違うところから

どのように光のイメージの共有することができるのか

渡邉)盲ろうの方のコミュニケーションが前提として

どのようにして成立するのかってのがわからないんですけど

例えば日本語の文字を手のひらに書くと

意思疎通出来るということだったりするんですか?

和田)そうですね、いくつか方法があるんですけど

手のひらに書く手のひら書きの書き方があったり

さっきの空に書く話に近いんですけど

相手の手を取って一緒に文字を書く

そうすることで身体の動きをストロークを再現する

あとは私自身はいつも触手話によって通訳をしているんですが

私の手話に手を重ねて頂く、山を下っていくとか山のストロークを書いたり

歩くという手の動きを手を触れて頂きながら共有する

渡邉)それはオリジナルの言語ということ?

和田)それは手話という言語を起点として

それに触れていただきながら翻訳をするという

コミュニケーション方法ですね

渡邉)決まった文法や語彙がある

和田)また、指点字という手の指の甲の指の先、

第三関節を手を重ねてタイピングするように伝えていく

指点字というのがあります

渡邉)そういった方々は生まれつきの人もいるかもしれないし

途中で失明したり、聞こえなくなったりすることがあったりするのかなと思うと

そもそも日本語っていう知識がある中で

別の入り口からそれを吸収してる感覚なんですかね

和田)文字とか本とか言葉のインプットは視聴覚ゆえに難しいので

それを触覚的にどう伝えていくか

かつ今のお話でいうと中途の方の場合は

イメージっていうのがどこまであってどこまではないのか

幼少期に失明された方の場合はポケモンのイメージは持ってるけど

それ以降に出てきたアニメとか映画のイメージは持っていらっしゃらない

そういった時系列もあったりする

その方の中にどんな像やどんな記憶、どんな歴史があってて

それを元に翻訳もしていく過程の中で

互いの「ある」を探していくということをするのが

私の中での翻訳の面白さだと思います

伝え手の多様性もそうですけど

受け手の多様性も両方にあって

伝え手と受け手の多様性の中でどうやって100%「わかる」って

ないんですけどそれをどうやって作っていくのか

先ほどの穂村さんの話に戻ると

名付けというものすらも変容していったり

その人の中である種の定義がうまれていく瞬間に

出会うのもすごく甘美だし

それらがコミュニティによっても作り変えられていったり

意味が変わっていったりとか

家の中でも様々な意味や定義になっていったり

ある種新しい名付けがうまれたり

そういう、言葉がとても普遍なものとして

世に置かれているようでいて

実のところ全く普遍性を持っていない

伝えあえているから普遍的なんですけど

でも「切ない」一言とっても私の切ないと康太郎さんの切ないは多分違う

そういう結構ギリギリのところを綱渡りしながらお互いに会話をしている

ところがあるんじゃないかなというふうに思っています

渡邉)絶対そうですよね

まさにドミニクチェンさんの「わかりあえなさをつなぐために」という

サブタイトルの「未来をつくる言葉」って本がありますけど

100%の理解ってのがないと分かりつつも

そこに近寄ろうとご努力していくような所作が多分人にはあると思う

それをいうとやっぱり通訳する人とされる人の組み合わせの相性って

いろいろあるよねきっと

その組み合わせによって全然違うコミュニケーションの作法が生まれたり

幅が広がったりまたは狭まったりっていうことが起こるんだろうね

和田)そうですよね どんな文化を受け取ってきたか

どんな映画みたか、何を体験してきたのか

通訳の現場に行く時にはその人の中の水脈みたいなものを探っていく

その人がどうしても希求してしまう何かだったり

この人はここでテンション上がるんだなということを

本を読みながら考えたり 言葉の選び方とかも含めて

この言葉に美学を見出しているんじゃないかなとか

そういうことを考えながら翻訳・通訳の現場に行くことが多いです


<感覚と未経験の翻訳>

渡邉)今まで通訳をした中でこういう言語世界を持ってる人なんだなって

印象に残った出会いとかエピソードってありますか

和田)言語世界でいうとアーティストの方とかの通訳の現場においての

その人の、言葉にできないんだけど触っていきたいと思っている世界を

作品をたくさん拝見していく中でアーティストトークで全て言語化

できているわけではほぼほぼないんですけど

シズルのポイントやキュンとしてるんだなみたいなことに触れたり

明らかにこの言葉から広がる語彙がここの領域だけすごく多いなとか

それはすごく面白いです

逆にいうとこれまで一番難しかったのはバレエダンサー

バレリーナの方々の通訳の現場で体がすごく修練されてる

出来あがっている体の中でぽつりぽつりという

「手が伸びやかになる感覚なんです」っていう重さ

私の体じゃ一生たどり着けない「のびやか」

そののびやかってどののびやかですかという

体が追いつかないという意味での翻訳の難しさ

ダンサーの皆さんの言葉は翻訳できなかったなというか

翻訳できないんだけどどうやったら近づけたかなと考えていることが多いです

渡邉)それはバレリーナの方とどういう人を媒介してたんですか

和田)バレリーナの方の言葉を手話にして

観に来てくださってる方に伝えるような場でした

渡邉)なるほどですね

当然言葉の中に梱包されてるイメージは全体的に伝えられないけど

ものすごくインタープレートすることを 重みを持って捉えてるということですね

和田さん自身が 当然体験したことじゃないので全部は伝えられないよね

それはあくまで言葉で表現されたもので

その人のバレエそのものではないものね

和田)手話という言語ゆえに私の体を通して通訳しなきゃならないので

その人の温度とか体幹とか感覚みたいなものを

いかにしてのせて伝えられるかを常に考えなければならないんですが

私の体をゼロにする 過去の経験を全て忘れ去ることと

同時に自分が全ての経験をしようとする

例えば歯を抜くみたいな痛いってことですらも

歯を抜いた体験を一回することで 誰かが歯を抜いた体験を通訳する時に

ちょっとでも近づけるかもしれないって思う

私の体をいかに色んな所に経験させていくか

体でわかるような状況に近づけていくかということを

両軸でいつも考えながら体を使って翻訳というものにアプローチをしています

<共通解を導く立体的な翻訳>

渡邉)感情移入っていう言葉があるけど それをまた別の形で行う

身体感覚移入みたいなのがあるのかもしれないですね

和田)そうですね

そこが手話と日本語だからこその面白さでもあるかな

という風にも思えます

渡邉)とあるインタビューで和田さんが

言葉だけでは伝えられないもどかしい気持ち

温度、空気があると答えていたのを読んだんですけど

まさに今のところに重なってくるのかなーとか

今ちょっと連想したのは手話を使ってる人が登場する映画とか

ドラマとか日本のものでも外国のものでも見ていると

結構動きがドラマチックだなと思っていて

そこの中にやっぱり感情がこもっている

よくよく考えれば音声言語で喋ってる時も

そこには当然抑揚がある感情がある

それはその込めている場合もあるし隠そうとしても漏れ聞こえてしまう

ことも色々あると思うんですけど

体でも同じような事なんだろうなとだんだん想像するというか

今なんかその解像度がやっと少しずつ高まってきたような気がしますね

分からないなりに

定番にただジェスチャーをするっていうことは

そもそもできないっていうことなのかな

和田)そうですね

体をどれくらい近づけて情緒性を出すかということもそうですし

例えば先ほどの手を伸ばすだと難しいんですけど

「花を見て」とか「綺麗な景色を見た」という時には

その人の頭の中には美しい景色の像が見えてるじゃないですかね

でも私はその美しい景色っていう言葉しか貰えないわけで

逆にいうと手話にするっていうプロセスの中には

視覚化しなければならないので 美しい景色っていうものをもう一度描く

みたいなことが必要になったりもして

渡邉)そういうことなんだ

和田)花がどう咲いてたのかとか

渡邉)それはやらないとどうなるの

言葉だけなぞるとどうなるんですか

和田)美しい、景色、と言葉を並べることはできるんですけど

私の理想ですけどその人の中に美しい花畑がみえてるのであれば

それをどうにかこう伝えたい

手話という言語メディアだと

映像化することが得意な言語なので

美しい景色っていった時に

お花が花道ができて咲き誇っているような手の動かし方も

枝垂れ桜が下に垂れ下がってるっていうような表現もできる

視空間が自在なので空間配置を伝えられたり

映像的に伝えるということもできるんですけど

渡邉)なるほど

結構クリエイティブというか言葉も自分で即興的に表していいものなの?

和田)像を伝えるための文法や構造がたくさんあるんです

カメラワークみたいなものとか

「あるく」一つとっても指二本指を使っても歩くっていう表現もできるし

自分の体を使って歩くっていう表現もできるので

渡邉)どっちも辞書に載っている?

和田)辞書っていうと難しいんですけど

記号やラベルとしての「歩く」は1、2表現あるんですけども

映像的な表現に関してはCLとかNMMという言葉はあるんですけど

桜がどう垂れ下がってきてるのかとか

どんな咲き方をしてるのかとか

どんな空間配置なのかを伝えるための表現文法があって

映像化されていくというのが

手話という言語の中の魅力としてはあります

渡邉)面白いなあ

通訳の方によって全然違う世界が描かれるということなんですね

和田)その可能性はあるのかなあと思うんですけど

私は結構個人の翻訳が多いので一般化はあまりしてないんですけど

例えば1対多数を担当されている方は多くの方の共通解を

作っていくための通訳だと思いますし

私みたいに個々の人と接して通訳していく場合は

その人にとってのわかるを作っていくようなことなのかなと思ったり

誰と誰をつなぐのかによる通訳者の個性もあるけど

そこでのベストを探るということなのかなと思います

<「感覚」移入する空間芸術>

渡邉)なるほどこれはすごい興味深いテーマだな

時間が終わりなんですけどそんな割にちょっと

1ネタぶっこませて頂くと

込み入った話になるから来週でも良いかもしれないんですが

記憶が曖昧です

ある幼稚園での研究が保育士の方が絵本はどうやって読み上げるかっていうのと

それを絵本を聞いている子供たちがどう反応するかっていうのの

比較実験が行われたらしいんですけれども

保育士さんがドラマチックに演技をしながら読むパターンと

棒読みするパターンで棒読みした方が

子供達の記憶の定着とか集中力が高かったという結果になった

僕は結構びっくりしたのですが

何でかよくわかんないけど 勝手に理由を想像するのであれば

むしろ平坦にすることによって 聞いている側の想像力を刺激して

自分なりのドラマを今の幼稚園児の子達が

見出すという余白を作ったのかもしれない

わかんないけど演技したほうがよりドラマになりそうだけど

そうでもないんだなってのちょっと意外に思ったんですね

これはしかしあらゆることで同じかってとそれはわかんないですよね

だって本だったらビジュアルがあって絵と言葉がある

ビジュアルがあるので 平坦な抑揚のない言葉でも

むしろそこで想像がはかどる補助線になってる可能性はあるから

一般化はできないと思うんだけど

どういう風にドラマ性を再現するのか

単に大きくするとか表現力を高めるっていう一軸では多分ないんでしょうね

どういう空間の使い方をするかボリューム感

様々なパラメーターをその時その時に合わせて通訳しているのかなと

思うんだけど とめちゃくちゃ高度な技がいりそうだなと

今聞いていて思いました

和田)本当にそうですね

この受け手側が何パーセントでそれを受け取りたいのかとか

常に伝え手が100%であったとしても

受け手がに20%であったりするし それぞれの粒度がある

例えば余白をつくることで 受け手を100%にしていく

方法もあるのかもしれないですし

今日お話ししながら とても複雑なことを

自分でも現場現場で立ちながらやっていて

途方もない気が改めてしてきました

渡邉)そうですよね すごい仕事だなと思いました

今日はインタープリットする 媒介する

通訳するっていうような概念の周辺で

身体感覚は感情移入ならぬ 身体感覚移入みたいな考え方

語り手の中にある水脈を探るっていうような和田さんの感覚を含めて

色々聞いてきたんですが もう何かお話を聞くだけで

ちょっと一瞬で時間が経ってしまって

深堀りしたいと思ったテーマに 全然たどり着かずでした

でもめちゃくちゃ面白いので来週も是非

その視覚化を共にするってどういうことなのか

想像力を刺激するってどうやったらできるのか

分類できないものにアプローチする作法なんていうとこも含めて

何かお話できたら面白そうだなと思いました

楽しみにしてます ありがとうございます

和田)ありがとうございます

(*1)日本語対応手話(手指日本語)…

手と指を使った日本語であり、手指日本語[しゅしにほんご](Signed Japanese:サイン化された日本語)と呼ばれる
手話単語を日本語の語順に沿って対応させていく

(*2)日本手話…

ろう者同士のコミュニティの中で手指、顔、上体の動きなどを媒介として自然発生的にうまれた自然言語
音声言語とは異なる文法や言語体系を持つ


手話:日本語や英語のような主に音声を媒体とする言語(音声言語)とは異なり、手や顔、上体の動きなどを媒体とする言語(視覚言語)
音声言語と同様に国や地域によって文法が異なる

■SPINEARで聴く

https://spinear.com/shows/takram-radio/episodes/2022-12-16/

■番組情報

番組名:TAKRAM RADIO

放送局:J-WAVE

放送日時:毎週木曜 26:00-27:00

ナビゲーター:渡邉 康太郎

番組HP:https://www.j-wave.co.jp/original/takram/

番組Twitter:https://twitter.com/takram813

番組ハッシュタグ:#takram813

ポッドキャスト:https://spinear.com/shows/takram-radio/

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