206 能地・二窓漁民の漁場開発(2)

能地・二窓漁民の漁場開発については、松岡久人編著『瀬戸内海の歴史と文化』(瀬戸内海環境保全協会)にも「小漁師の漁場開発」と題して記述があるので紹介しよう。

安芸能地(三原市)を根拠とする漁民は船を家として瀬戸内海を漂泊しながら漁業を行っていた。かれらは苫で屋根をふいた小さな船を夫婦であやつりながら、瀬戸内の各浦で小型の手繰網をひいて生活していたのである。このような漁民の姿は、天正14年(1586)キリシタン宣教師クエリヨによって書きとどめられており、すでに近世初頭には海上漂泊漁民がいたことがわかる。かれらは、自由に瀬戸内海を往来し、手繰網で獲った小魚を芋・麦や野菜などと交換して生活していたため、税を納める必要がなく、夫役労働の義務もなかった。このような簡素ではあるが気楽な生活が、かれらの人口を次第に増加させ、やがて漁業条件のよい瀬戸内の各地に、かれらの小さな漁浦(端浦)を成立させたのである。元来、瀬戸内の大きな漁村は加子浦といわれ、加子役や運上銀を負担するかわりに、領主から漁場の漁業権を認められていた。このような漁業権をもたない能地漁民は、加子浦を避けながら次第に小さな浦々へ定着していった。能地を親村とする浦は瀬戸内のいたるところにあり、その数は150を越えるといわれている。

ところで、安芸二窓(竹原市)にも能地漁民と同様に船を家とする漁民がいた。二窓漁民は主として延縄漁を行いながら瀬戸内海各地の漁場を開発していった。伊予灘の青島を中心とする漁場は能地漁民によって開発されたが、文政9年(1826)には二窓漁民による延縄漁が行われて大いに発展した。青島の東北にある斎灘・関前などの漁場も天明元年(1781)に二窓漁民によって開発され、以後かれらの重要な漁場となった。燧灘中心にある魚島より南の讃岐・伊予に近い海域も、天明4年(1784)にかれらによってひらかれた漁場の一つである。幕末期にこの漁場へ出漁した二窓漁民は200人を越えたといわれている。(松岡久人編著『瀬戸内海の歴史と文化』P129~130)

沖浦和光著『瀬戸内の民俗誌』(岩波新書)『瀬戸内の民俗と差別』(現代書館)にも能地・二窓漁民に関する記述があるので紹介しよう。

〈浦氏の菩提寺〉私も何回か能地浜に立ち寄ったが、今日では能地港には漁船の姿はほとんど見られない。町中で何人かの若者に訊ねてみたが〈家船〉の話なんか聞いたことがないと言う。

能地のすぐ裏山に善行寺がある。家船漁民は年中〈船住居〉だったが、年に二回、正月と盆には必ずこの能地に帰ってこなければならなかった。能地に帰ってきてもそこに家があるわけではないので、大半の漁民は船に寝泊まりした。旅先の海で死んでも、そのむくろは塩漬けにされてここまで帰ってくる習わしだった。葬式や追善供養もこの寺で行われたが、貧しい家船漁民のむくろは寺の墓地ではなくて浜辺に埋められたと言われている。 こういう方式は、檀家の数を減らさないために、善行寺が漁民たちに義務づけたのだが、正月と盆に帰ってこなければならぬ最大の理由は、「帳はずれの無宿」と見なされたからだ。1664(寛文四)年に諸藩に宗門奉行の設置が命じられ、その7年後には宗旨人別改帳制度が実施されるようになった。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人の探索にひっかかったりした。

高台にある善行寺は、貧しい漁民の菩提寺としては立派な寺だが、漁民だけでなくこの海辺一帯で海運や商業を営む町方の多くが檀家だったのだ。臨済宗の善行寺は、1469(文明元)年に、土地の豪族浦氏によって建立されたと伝えられている。浦氏は沼田小早川家の庶家(分家)で、小早川勢の有力な一族だった。〈浦〉を名乗ったその姓からも分かるように、小早川勢の瀬戸内海進出の先駆けとなったが、特に水軍史上で名を残したのは浦宗勝で、1576(天正四)年の木津川口海戦では毛利方水軍勢の総帥をつとめた。能地と二窓の海民がこの浦氏が建立した寺の檀家になったのは、瀬戸内海を縦横に駆け巡って奮戦した浦氏の直属水軍として働いたからである。瀬戸内海の海民のほとんどは熱心な浄土真宗の門徒だった。このように臨済宗の檀家だった例は珍しい。小早川の一族は臨済宗の熱心な信者が多かったら、その水軍の傘下にあった海民も善行寺の檀家になったのだろう。(『瀬戸内の民俗誌』P179~181)

この能地と、すぐ隣の二窓が、家船漁民のもともとの親村だと推定されている。尾道の吉和、因島の箱崎、伊予中島の大浦、小豆島の江ノ浦などが漂白漁民の根拠地としてよく知られている。近世に入ってから、彼らが住み着いた枝村は、瀬戸内の各地に広く散在している。明治時代に入ってからの出村を含めると100をこえる。(広島県教育委員会『家船民俗資料緊急調査報告書』1970年)1960年代が昔からの家船形態の終焉期だった。「伝統的な家船民俗は急速に失われつつある」というので、広島県では三原市の能地と因島の箱崎地区を緊急に調査した。ところでこの報告書の末尾には「能地・二窓移住寄留地図」があって、その寄留先、つまり枝村の一覧表が出ているが、西は大分県の津留をはじめ、東は小豆島に至るまで、およそ100ほどの枝村がある。(『瀬戸内の民俗と差別』P387~390)

さらに、小川徹太郎著『越境と抵抗』(新評論)にも能地・二窓東組の寄留・移住についての記述がある。

俵物貿易が本格的に展開されて行く、18世紀初頭の頃より、瀬戸内の能地・二窓東組の小漁師による瀬戸内海全域におよぶ盛んな寄留・移住現象が見られる。両浦漁師の檀那寺である臨済宗善行寺の「過去帳」には死亡時の場所が「〇〇行」と記録されているので、それをたよりにして、おおよその彼らの活動範囲を知ることができるのだが、その地名を分布図に落とし、彼らの近世から明治にかけての展開の様相を明らかにしたのは河岡武春である。それによると両浦漁師の活動範囲は、東の小豆島から西は小倉の平松浦までの広域に渡っていたことがわかる。

「過去帳」によると、明らかに出職先での死亡であることを判明しうる一筆の初見は、能地では1709(宝永六)年に「讃岐行」、「風早行」、「広行」、二窓では1719(享保四)年に「備前行」とある。さらに行先の藩ごとに過去帳記載の初見年代をみていくと、讃岐には、先に見た能地の1709(宝永六)年・二窓の1721(享保六)年、備前には能地の1785(天明五)年「犬島行」と二窓の1719(享保四)年「備前行」伊予には能地の1721(享保六)年「大三島行」「袖ケ谷行」、備後には能地の1716(享保1)年「三原行」・二窓の1724(享保9)年「草深行」、安芸には先の能地の1709(宝永六)年「風早行」、「広行」と二窓の1724(享保九)年「御手洗行」、「大長行」となっている。多少の差はあれ、およそ十八世紀初頭、とりわけ享保期の件数が目立つことから、この頃には瀬戸内に面した五ケ国にまたがる出職がみられたことがわかる。

それから百年を経た1800年代になると、異常なまでの激増をみる。1800~24年の間に222件うち出職者85件、1825~49年の間に423件、うち出職者266件、1850~74年の間に552件、うち出職者275件となっており、両件数とも幕末期における上昇が目立つ。

1833(天保四)年2月から7月の間、能地の割庄屋、二窓の庄屋・組頭それぞれと善行寺住職が示談の末廻船による出職者の「見届」を行った。その結果、船頭数つまり筆数と、成員数の総計が記されている。それによると「能地浜浦」在住者142筆、646人、「二窓地方」在住者54筆、246人に対し、「能地浜方諸方出職者」420筆、2053人、「二窓浦諸方出職者」192筆、1013人となっており、両浦浜合わせた「諸方出職者」の員数は地元在住者の約三、四倍を占めることになる。 (『越境と抵抗』P194~201)