167 二窓と長浜の魚売りの行動圏(1)

竹原書院図書館で、胡桃沢勘司著『西日本庶民交易史の研究』という本をみつけた。この本の第四章は「行動圏の問題(瀬戸内海)」と題されていて、魚売りに従事するものの住む土地を現地調査した「採訪録」が掲載されている。この中に忠海町二窓と長浜の現地調査の採訪録があるので紹介しよう。著者はその問題意識次のように述べている。「芸備沿岸地帯は、学界では、家族が舟に起居しながら魚の捕獲、販売を行う、所謂『家船』が多く分布した所として知られている。そのため、特に漁師の妻を担い手とする魚売りについては家船との関わりで述べられることが多かった。(中略)ただ、関連文献に目を通しているうちに、魚売りの全てが家船をベースとするタイプであったわけではないのが認識されるようになったのである。これに基づき、現地調査に関しては、能地のように家船の根拠地であった所のみに限定することなく、魚売りに従事した者の住む土地を訪れるよう心掛けた。」(『西日本庶民交易史の研究』P154)

「忠海は、中世、沼田荘の沿岸部の一画をなし、浦氏の勢力下に置かれていた。二窓は忠海の東端に位置し、漁村として公認されたのは明暦二年(1656年)のことである」(『竹原市史』第1巻P377)。「二窓は東方と西方で構成された村だが東方の者は遠方に出漁して盆・正月に帰って来るくらいであったのに対し、西方の者は近海で漁、長くても3~4日で帰って来る、という具合に、活動形態には明瞭な相違が見られた」(『広島県史』近世二P824)。「瀬川清子が調査した時点で『今もカベリが盛んに活動している』と報じられ」(瀬川清子『販女』P4)、魚売り行商が活発行われた所であるのを伺わせるが、 今回は倉本澄・益原照枝の両氏(共に大正10年生まれ)から話を聞くことが出来た。

倉本氏は祖母(中野スエ 1854~1934)が、益原氏は母(安岐スギ 第二次世界大戦末期66才くらいで没)が、各々魚売りをやっており、その様子を見たり聞いたりしている。スエ・スギの両氏とも、二窓で生まれ、ずっとここで暮らしていた。かつて、この土地では、女性は15才になったら必ず働きに出なければならないものとされ、農業か漁業の手伝い、もしくは、魚売りのなかから一つを選らばされていたが、両氏共に行商を選択したというわけである。ここの魚売りは4つのタイプに分けられる。分ける目安は行先で、マチイキ(忠海の町へ売りに行った者)、ノウヂイキ(能地へ売りに行った者)、ジャイゴイキ(小泉など北の農村へ売りに行った者)、オクイキ(沼田川以北の地域へ売りに行った者)と、それぞれ呼ばれていた。ちなみにスエはオクイキ、スギはジャイゴイキである。どれになるかは、駆け出しの時、仕事を教えてくれる人が属するタイプにより自動的に決定された。マチイキ・ノウヂイキ・ジャイゴイキはカベリと呼ばれたが、オクイキにはこの呼称は使わない。二窓では、魚売りの仕事を母から娘へ受け継ぐというケースは少なかった。重いものを運ぶうえ客の機嫌とらなければならないなど、心身共にきつい仕事なので、子供には勧めたがらないのである。ただ、祖母から孫へという継承は時折見られた。母が出漁時に遭難し、その後は祖母に育てられた者が結構居たからで、この場合祖母が魚売りをしていれば、孫娘に仕込むということになったのである。

魚は、カベリはイオンタナ(市場)で仕入れていた。イオンタナは、昭和2年に出来たが、場所は小学校の一寸西のハト(船着場)の跡付近である。朝、ここへ漁師が魚を持ち込むのを見計らって、カベリたちが集まって来た。魚は、籠に入れられ、サヤス(値を付けること)が、その際、声をかけたのは堀井三太郎、帳付けをしたのは伊勢本兼松である。イオンタナに出入りするにはカブに入っていなければならず、いきなり行っても買うことはできない。イオンタナにはカブ持ちの名札が下げられていた。支払いは数日に一回纏めてしていたが、これが滞ると、名札を裏(赤塗り)返しにされ、出入りを停止される。行先によっては客から代を貰うのが半年に一回になるから、その方面のカベリをするには一定の元手が必要とされた。魚は地先のものが中心で、アナゴ、ボラ、タモリ、ホゴなどだが、季節によって違いがある。鯖・鰯はここでは獲れないから、オクリと言い、トロバコに入れられたものが送られてきた。カベリは原則として夏でも生物を持ち歩いていたものである。(『西日本庶民交易史り研究』P163~169)